ナイアガラ

「どっか行きたい」と彼女は言う。「どこでもいい」
「どこってどこよ?」と僕は言う。
「どこでもいい。日本じゃなくて。・・・そうだ。ナイアガラ」
「ナイアガラ?」
「うん」
「でかい滝でしょ?」
「そう、あれ。あれが見たい」
「なんで?」
「・・・なんでって、いいじゃん別に。ただ、今、思いついたってだけ。いちいち理由いる?」


彼女はガバッと跳ね起きる。
「出る?」と僕は聞いた。
「シャワー浴びる」と言って、彼女は裸のまま部屋の奥に消えた。
僕は一人ベッドの上に取り残された。
やがてシャワーの音が聞こえ出した。


滝の音にかぶせてイメージしてみようとする。ナイアガラ。
確か滝壺へと向かう遊覧船に乗れるんだったか。
ビニールのポンチョみたいなの着て。
轟音。歓声を上げるアメリカかヨーロッパの人たち。水しぶきを浴びる。
楽しいんだろうか?
楽しいんだろうな。ここでこんなことしてるよりも。


外の、蝉の音が聞こえる。
夏。日曜の午後。
今月初めて会った。フローズンラテを飲んだ。
2階の窓際の席に並んで座って、街を行く人々を眺めた。


奈落の底に向かって、引き摺られていく。
轟き渡る瀑布。
目の前でパックリと激流が途切れている。
一瞬のうちに辺りを見回す。水平線の奥まで、それは続いている。・・・ように見えた。
昔の人たちが思っていたこの星の姿は球ではなく平面で、絵の中には世界の果てが描かれていた。
僕は黄色いライフジャケットを両手でギュッと握り締める。
目を閉じて彼女がシャワーを浴びる音を聞く。


目を開ける。
彼女がついさっきまで横たわっていた場所。
彼女の匂い。
僕は立ち上がってテレビをつける。
何の偶然か、ナイアガラの滝が映っていた。


コマーシャルを挟んで、場面は夜になる。
女性のリポーターがはしゃいでいる。湖の上で花火が打ち上げられていた。
「きれいね」と背後で声がした。
振り向くと彼女がいつのまにかシャワーから上がっていた。
「ナイアガラ」と僕は指差す。
「こんなだっけ?」と彼女。


彼女が化粧を整えるまでの間、僕はベッドに寝転がってテレビを見ていた。
彼女も時々チラチラと眺めた。
いつの日か訪れるのかもしれないし、訪れないかもしれない。
そのとき僕は一人かもしれないし、誰か他の人と一緒かもしれないし、
彼女と一緒なのかもしれない。
いや、この世界の他の場所とおんなじで、ここもまた訪れることはないのだろう。
いつの日か行きたいねと時々思い出したように言ってみて、ただ、それだけ。


番組が終わって、部屋を出た。
支払いを済ませて、外に出た。
外はまだ、夏。蝉の音がうるさかった。
二人並んで街の中に溶け込んでゆこうとする。
彼女が僕の手を握ろうとするから、僕も彼女の手を握り返した。