3年前の夏、7月の3連休、ふらっと青森に帰った。
新幹線で帰ってきて次の日は日曜日、特に予定はなく、
青森県立美術館がオープンしたばかりだというのでバスに乗って行ってみた。
開館記念の特別展としてシャガールの「アレコ」の巨大な背景画3枚を展示していた。
このときもう1つ開館記念の企画展があって、
それは青森県出身の芸術家の作品を集めたものだった。
棟方志功の版画、澤田教一のベトナム戦争の写真、
寺山修司は天井桟敷のポスター、そして奈良美智がでっかい犬のオブジェ。
この辺りの名前、もちろんよく知ってる。
他にも何人かの絵や写真があちこちに飾られていて、
その中に成田亨という人の絵だけを集めた部屋があった。
見覚えのあるフォルムが目に飛び込んでくる。
あれは、・・・ゼットン?
ウルトラマン最終回の。強かったよなあ。
子どものとき見てて、あれは絶対勝てないかと思った。
成田亨はウルトラマンと、その怪獣たちをデザインした人だということを知る。
厳密にはウルトラQとウルトラマン、ウルトラセブンまで。
部屋には、その原画が飾られていた。当日のメモによれば、
ウルトラQ :カネゴン、バルンガ、ピーター
ウルトラマン :ダダ、ゼットン、バルタン星人、ジャミラ、シーボーズ
ウルトラセブン:メトロン星人、ユートム、エレキング
(実際はもっとあった)
感激した。
幼稚園の頃はウルトラマンとドラえもんが世界の全てだった。
怪獣大百科みたいなの何冊も持っていて、どれもボロボロになっていた。
週に1度50円玉だったか100円玉をもらうと
駄菓子屋にウルトラマンのカードを買いに行った。
一袋に確か5枚ぐらい入っていて、開けてみるまで何が入っているかわからない。
ダブったのを次の日幼稚園で交換した。
懐かしい記憶がよみがえってくる。
メトロン星人って、なんてかっこいいんだろ。
どうして、こんな独創的なデザインを思いつけたんだろ。
この日、シャガールよりも棟方志功よりも、感動した。
帰りにミュージアムショップで絵ハガキを買い漁って、
感極まって限定100部で販売されていた、
遺族が自費出版で出した成田亨の遺稿集まで買ってしまった。
カバーには(成田亨の強い思いにより、胸のカラータイマーがない姿の)
ウルトラマンが描かれている。
それがこの「眞実 ある芸術家の希望と絶望」
読まないまま本棚にしまいこんで、3年。
先日ふと思いだして、読んでみた。
僕は知らなかったんだけど、この人、高校の先輩に当たる。
青森高校を卒業していた。
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成田亨の人生をまとめてみる。
・1929年、兵庫県にて生まれる。武庫川のほとりにて育つ。
父は外洋航路の船長だった。
・生後八ヶ月のとき、囲炉裏の火で左手を焼けどする。
その後何度か手術を繰り返すが、左手は生涯不自由なままとなる。
・太平洋戦争が激しくなると、父の故郷青森へ。
青森高校(当時は中学)では絵画部にて絵を描いて過ごす。
・卒業後青森市の印刷所で働き、21歳のときに上京。
武蔵野美術大学に入学。3年のときに彫刻科に移る。
・美大を卒業する頃、アルバイトで東宝のスタジオでセット作りに関わる。
この作品が「ゴジラ」世界的に有名な作品であるが、
彫刻科を出た成田亨からすればそのフォルムはてんでだめだったとのこと。
総じて東宝の怪獣は実際の生き物を巨大化しただけであったり、
創造性というものがまるでなかったと彼は考えた。
・このときの経験がきっかけで映画業界で食っていくようになり、
30代前半までを東映や松竹での特撮美術監督として過ごす。
この頃は忙しいさなか、「新制作展」に彫刻を毎年出展していた。
・時代は60年代後半。30代半ばを過ぎて円谷英二監督に呼ばれ、
ウルトラQの怪獣デザインを手がけるようになる。
そしてそのままウルトラマンへ。
怪獣たちの斬新なデザインを週に1体ずつひねり出すという多忙な生活を送る。
ウルトラマンのデザインも彼によるもの。
しかし、後の円谷プロダクションの面々が公の場で
「あれはみんなで考えて、絵描きに書かせた」などと発言し、
功労者である成田亨の名前は闇に葬り去られる。
後年、誤りは正されていったものの、当時は一部の熱狂的なファンのみが知る存在となる。
(円谷プロダクションに対する恨みつらみは本の中で、何度も何度も繰り返し吐露される)
ウルトラセブンと怪獣のデザインを最後に、円谷プロダクションとは袂を分かつ。
・1970年、大阪万博にて「太陽の塔」内部の「生命の樹」を手がける。
70年代は伊勢丹のショーウィンドーのディスプレイデザイナーとして活動する。
この頃から、ただ奇抜なだけの現代美術に対する嫌悪を抱くようになる。
・その後は彫刻家として個展を開いたり、
大きなイベントにてアートディレクターとして関わったり。
1990年60歳のとき、京都大江町に鬼のモニュメントを製作する。
・2002年、72歳で永眠。
・50年代から60年代にかけて、助手時代も含めて、映画の特殊美術を多く手がける。
それは70年代や80年代になっても続いた。有名なところでは、
「喜びも悲しみも幾年月」(木下恵介、1957年)
「ジャコ萬と鉄」(深作欣二、1964年)
「飢餓海峡」(内田吐夢、1965年)
「新幹線大爆破」(佐藤純弥、1975年)
「麻雀放浪記」(和田誠、1984年)
変わったところでは、「トラック野郎」シリーズの大半に顔を出している。
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この本の当初想定されていたタイトルは「かったいのウルトラマン」
「かったい」とは片輪、不具のこと。
不自由な左手を持つ自分の描いたウルトラマン。
そこに寄せる思いの強さ。
1人の彫刻家として、ウルトラマンのフォルムを芸術として生み出し、
最後まで自らの生み出した芸術として捉え続けた。
それゆえに関わりを断ってからの、「帰ってきた」以後のシリーズの
ウルトラマンと怪獣たちの造形の質の低さには、怒りを通り越して呆れ果ててさえいたという。
自らは彫刻家として創造を行ったが、
後を引き継いだものたちは商業的なデザイナーに過ぎず、
それまでのウルトラマンの体にパーツを足すだけで事足れりとした。
(実際、フィギュアなどで商品化されたときに売れるのは
初期シリーズの成田怪獣がほとんどである。
それは日本の60年代末から70年代初めにかけてのサブカルチャーの、
1つの極点であったと後年再評価されることになる)
芸術作品としての品位を貶められ、ただただ商品だけが作られ、売られ、
オリジネーターとしての栄誉も奪われる。
成田亨という名前を抹殺した、円谷プロダクションとの確執、軋轢。
遺稿集の中では切々と、その呪いの言葉だけが綴られる。
読んでいて感じたのは、何よりも大人の世界の侘しさだった。
子どもの頃の僕には知る由もなかった、真実。
たかが子供向けテレビ番組の怪獣じゃないか、と誰もが考えた。
それでもれっきとした1つの芸術作品であって著作権も発生するとは
当時の人からすれば笑い事だったに違いない。
成田亨は、勝ち目のない、孤独な戦いを強いられることになった。
そしてそれは、何十年と続いた。
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最後に1箇所、長くなりますが引用します。
埋もれてしまうのがもったいない歴史的な記憶。
p.69-71
‖怪獣デザインとは何か
‖
‖ 当時のテレビは、僕らにとって、やはり映画界からの都落ちと
‖いうイメージを拭い去ることはできなかった。けれども、毎週登
‖場する怪獣のデザインを創造することに楽しみを見出そうとした。
‖僕が手掛けるからには、ただ恐竜や蛾や亀を大きくしただけのよ
‖うな怪獣にはしない。この世にはいない斬新な怪獣にしなければ
‖いけない。一番最初に創った<ペギラ>は、東宝から来ていた特
‖撮美術監督の井上泰幸さんが残していったデザインを少し手直し
‖して完成させたものだったが、その次に<ピーター>を手掛けた。
‖しかしこれは、ただのカメレオンになってしまった。これじゃい
‖かんと悶々として、怪獣とは何か、というデザイン理念を徹底的
‖に追求し始めたのだ。
‖ それを歴史的にひも解いていくと、神話の世界へ戻らざるを得
‖ない。怪獣とは神であり、王だった。神話とは人間の夢。つまり
‖怪獣は、人間が考え出した人間という存在を超えたものであり、
‖神や鬼への畏敬であり、恐れであるという考えに辿り着いた。そ
‖して僕は、この世には存在しない怪獣の三原則というものを意識
‖し始めた。いままでになかった全く新しい形の創造。あの時代、
‖僕はそれを抽象性に求めた。ただし、完全な抽象作品になっては
‖大衆から離れたものになってしまう。僕が自分に課した怪獣の三
‖原則とは、次のようなものだった。
‖
‖一、既存の動物を、映像演出の効果だけで巨大に見せることはし
‖ ない。
‖二、人間と動物、動物と植物を合体する表現は使っても、奇形化
‖ はさせない。
‖三、身体に傷をつけたり、地を流させたりするような、生理的に
‖ 不愉快なものにしない。
‖
‖ 独創的であると同時に、健全に育つべき子どもたちに見せるこ
‖とを前提とした怪獣は、大人が守るべきモラルを踏まえた存在で
‖ある必要もある。この三原則を守って生み出した最初の作品が
‖<ガラモン>だ。これは会心の作だった。ガラモンで初めて、僕
‖は怪獣デザインに開眼したといってもいい。
‖
‖ウルトラマンに込めた普遍性
‖
‖ とにかく忙しかった。怪獣のデザインは、朝飯を食べる前の時
‖間に、お膳にケント紙を広げて描くしかないような毎日だった。
‖毎週1本の番組を創り上げるために、円谷プロへ出社すれば、打
‖ち合わせに次ぐ打ち合わせの連続。最も重要な打ち合わせが脚本
‖家・金城哲夫とのものだった。彼と打ち合わせをし、造形の高山
‖良策さんに発注して怪獣を創っている段階では、まだ監督が決まっ
‖ていないことも多かった。僕のデザインに異を唱える者は存在せ
‖ず、それは、僕の仕事を信頼して一切口を出すことのなかった、
‖本編監督の円谷一さんがスタッフ内に浸透させた雰囲気に拠るも
‖のが大きかったようだ。金城さんと一さん。結局、僕は彼らと一
‖度も酒を飲む間もないほどの忙しさに追われる日々だったけれど
‖も、この2人が、誰よりも信頼できる人間だったことは実感して
‖いた。
‖『ウルトラQ』も終わりに差し掛かり、また次の仕事を探さなけ
‖ればいけないという頃になって、ある日、一さんからチラッと
‖「辞めることはないよ」と言われたことがあった。そして、継続
‖して円谷プロの仕事に関わることになる。それが『ウルトラマン』
‖だった。
‖ 金城さんから与えられたイメージは、「いまだかつてないほど
‖格好よく、美しい宇宙人」だった。それまでのヒーローといえば、
‖サングラスやヘルメット、マフラーをくっつけていたので、そん
‖なものは全部取り去って、僕は単純化しなければいけないと考え
‖た。怪獣がカオスであるとするならば、<ウルトラマン>はコス
‖モス。古代ギリシャのプラトンの唱えた「混沌と秩序」の考えに
‖したがって、正義、明るさといった要素のシンボルである<ウル
‖トラマン>をコスモスの典型=キャノンとして表現しようとした。
‖そして、顔のど真ん中にシャーと一本の直線を入れ、存在感を持
‖たせるために眼は大きくし、口は古式微笑=アルカイック・スマ
‖イルでいこうと決めた。本当に強い人間は微かに笑うものだと思
‖う。つまり僕は、生命感のある単純さを求めたのだが、これが、
‖いくら紙に描いていても決まらない。やはり彫刻家の、武蔵美の
‖後輩だった佐々木明君に頼むことにした。
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今思えば、成田亨はウルトラマンとその怪獣たちを通して、
人間というものや世界というものの美しさと醜さとを描いていたのだ。
その、立像だったのだ。