『トゥルー・クライム』

今日の朝、クリント・イーストウッド監督・主演の
トゥルー・クライム』という映画を観た。1999年の作品。


この夏からC.E.監督の映画を何本も観ている。
1992年の『許されざる者』でアカデミー賞を取ってから
2003年の『ミスティック・リバー』で再度脚光を浴びるまでの間、
『スペース・カウボーイ』や『マディソン郡の橋』といった話題作を撮りつつも
不遇というかスランプの時期に合ったのではないかと思う。
(そんなふうに思ってるのは僕だけか?)


その作品群の中ではこの『トゥルー・クライム』がダントツでいいと思った。
パーフェクト・ワールド』のラスト近く、
脱獄囚ケヴィン・コスナーを遂に追い詰めて
草原を一人渡っていく場面にもゾクゾク来たが、
映画全体がいいというほどのものでもなかった。
ブラッド・ワーク』『目撃』『真夜中のサバナ』辺りは
C.E.監督主演の映画だというだけで満足して観てしまうけど、
客観的に捉えるとそれほどいい作品ではなかった。


12時間後に死刑が執行される黒人男性。
無罪だと嗅ぎ取った新聞記者(もちろん、C.E.)が独自に捜査を始める。
彼は昔、ニューヨークで腕利きの記者だったのが職場を追われ、
カリフォルニアの小さな新聞社へ。
アル中となって酒はやめたものの女はやめられず、
あちこちで浮気を繰り返して妻からは離縁を求められる。
そんな落ちぶれかかった男。頼るは自らの勘のみ。
正に、クリント・イーストウッド


ありきたりな話になってしまうけど、
要するにあるべきヒーロー像というか、アンチ・ヒーロー像ってことなんだよな。
『ダーティー・ハリー』や『ペイル・ライダー』『許されざる者』で演じた、
ならず者なんだけど、自らの信じるところに忠実に生きる孤独な男。
それがこの現代においてはどんな姿をして、どんな行動を取るか。
西部劇で描かれた時代がリアルだった19世紀後半から、ずっと、
アメリカの英雄像ってそういうものだったように思う。
余計なことは何も言わず、流れ流れて、ここぞと言うところで有言実行。
周りの皆を敵に回しても弱き者を助ける。
しかし、そんな英雄はアメリカでも流行らなくなった。
20世紀半ばにはガンマンからハードボイルドな探偵たちに役柄を変えて、共倒れ。
どっちも廃れた。
最後ただ一人、クリント・イーストウッドだけがその価値観を守っているような。


そもそも最近の映画では主人公は登場しても、ヒーローとして描かれることが少ない。
敵や災害やその他困難な状況は仲間と共に助け合って打開するものとなっている。
それはそれで間違ってないが、現実的にはそちらの方があるべき姿だが、
本当にそれでいいのだろうか。
何らかの不都合があって
かつての古きよき英雄は排除されようとしている感じがする。
早い話、秩序を乱す異分子なんだろうな。
そしてそれは独善的なヒロイズムを撒き散らしているとすら思われて。
(ヒーローをヒーロー足らしめているのは、その行動原理としての「イズム」だ)


年齢のこともあって仕方がないけど、
グラン・トリノ』を最後に出演しなくなったというのが寂しい。
マット・デイモンだとやはり物足りない。
(昨年の『インビクタス』や今度の『ヒア・アフター』に出演)
主人公ではあっても、ヒーローではない。思想を持たない。
なんだかなあ。
こういうことを考えるとき、アメリカ映画はどこに向かっているのだろう、
どこに向かいたいのだろう、と不安になる。