百景社『椅子』

昨晩は縁あって百景社という筑波から来た劇団の『椅子』という芝居を見た。
原作はイヨネスコ。板橋の30人も入ればいっぱいの小さな劇場にて。


面白い趣向がなされていて、入場者が1人増える度に
壁にプロジェクターで映し出される数字が1つ増える。
上演時間になってそれが「35」まで来たところで上演開始。
客席案内係だと思っていた男性2人がそのまま演じ始めた。
(後にこの2つのことが重要なフックとなる)


舞台は、客席の壁まで真っ白に塗られている。
そこにパイプ椅子が2つ並べられて、
奥の壁に黒のテープで四角く「窓」が2つ縁取りされている。
その下に低い木箱の台が2つ。それぞれささやかに花が備えられている。
そしてプロジェクターがどこかの何かの部屋の入り口を映し出す。
それだけ。簡素で、抽象度がとても高い。”何もない”と言っていい。
恐らくこれはイヨネスコの舞台を相当換骨奪胎するのだろうと想像がつく。


演じ始めた男性2人は老夫婦ということになっていて、
老人は今晩何か大事なメッセージを発表することになっている。
しかしこの雄弁な老人は話すのが下手だと謙遜して
代わりに”弁士”を呼ぶことにしたと客席に向かって告げる。
同じく”筑波”からTXに乗って来ることになっていて、
今、向かっている途中だという。
壁には Twitter の画面が映し出されて、「森谷なう」などと。
それが劇中に少しずつ進んでいって、北千住を通過し、秋葉原へ。
板橋からは小舟に乗って「ここ」に到着することになっている。


発表に当たっては客席にいる僕ら以外にも
特別なお客さんが呼ばれていて、続々と到着する。
ブザーが鳴らされてドアがバタバタと開く。壁の数字が増える。
大佐や美女など(目には見えない)お客さんがその空間に入ってくる。
その度に「そこ」には椅子が増えていく。
2人は彼らをもてなそうとするが、うまくいかない。
なのにブザーはひっきりなしに鳴って、お客さんはどんどん増え続ける。
その場を埋め尽くし、身動きが取れないまでになる。


壁のカウンターは今や”69億”にまで達したところでストップする。
そこでありがたくも皇帝が現れる。2人はうやうやしくも応対する。
弁士はまだか? はい、今すぐに。今すぐ到着するはずです。
お待ちください。いや、必ず。いえ、めっそうもない。
あ、今、到着しました!


3人目の登場人物、弁士がその空間にゆっくりと入ってくる。
老夫婦は役目を終えたとして自殺を遂げる。
そして弁士は1人、メッセージを読み上げようとするのだが…


(これ以上のことはネタバレになるので、ここには書きません。
 しかし、勘のいい方なら何が現れたのか察しがつくかも)


イヨネスコの『椅子』を読んだことはないし、
他の舞台化を観たことはないんだけど、
この演出家はかなり自由に翻案したのだろうということは伺える。
今、この時代にこの国で、ここ東京で演劇を行なうということは
どういうことなのか、そういう視点を持ち込まずにはいられなかった。
9.11以後の世界、3.11以後の日本。


2人だけで始まって、来るんだか来ないんだか分からない人物を待つ、
というところで最初の辺りはどうしても
ゴドーを待ちながら』と比較しながら観ることになる。
しかし、来るどころか”全て”の人がそこに来る、来ない人など無い、
というところが全然違っていた。
…なのに舞台上にはあくまで2人しかいない。
無限に増え続けることを約束された椅子があるだけ。
”何もない”ことが、かえって”全てがある”ことに転換する。
演出家のもたらそうとした”意味”で空間が埋め尽くされていく。


だけどここはもっと過剰に、暴力的なまでに
”意味”や”情報”で溢れさせることができたはずだと思わなくもない。
ラストの大胆な転換を迎え入れるには。
イヨネスコの台詞や設定に忠実になるのではなく、
現代の東京に置き換えきった方がよかったのではないか。
それはそれで安易なストーリーに陥りかねないけど、
そこにこそあえて挑戦してほしかったと一観客として思った。


あと、選曲は僕ならば小田和正といった日本人に知られた曲ではなく、
そこは逆にどこの国とも判別つかないようなメロディーを持って
どこの言葉とも聞き分けられないような歌詞を歌う曲にする。
それは東京や日本のことだけではないのだ、というために。


まあ、それはともかくとして、役者の2人の演技がとてもよかったです。
思いがけずいい演劇を観ることができた。
次の公演も観たいですね。


埼京線に乗って帰ってくる。
乗客はまばら。窓の向こうに東京の夜景。
舞台の上に残された、この地上に残された、椅子のことを考える。
僕が、全人類が、座ることになる椅子。
ポツンとそこに並べられている。