昔の人にとって日記を書くということはあくまで内に秘めた私的行為であって、
自ら公開するものではなかった。
死後、学術的価値のある、時としてゴシップ的価値のある日記が公にされた。
手紙もそうだ。
今、どれだけの人が日記をつけているのだろう、と思う。
書物としての日記。
公開範囲が自分だけというWEB上の日記もそこに含めていい。
公開するつもりの一切ない日記。
今さら指摘するほどのことでもないけど、
今の若い人は、特に1990年代半ば以後に生まれ育った中学生や高校生は、
日記とはWEBで公開することを前提に書かれるものだと捉えているかもしれない。
そしてそれをごく自然なこととして受け止めている。
極論して平板化して言うなら、
プライヴェートな領域がなく、全てが共有されるということになる。
そう考えるとゾッとする。
世の中は大きく変質したように思う。
(それは最終形として『1984』のビッグ・ブラザー的国家に至ることも考える)
あっけらかんと凶悪な犯罪が行なわれるようになったのは、
そしてその思いが犯行前にWEBに吐露されるようになったのは、
そういう変化によるものではないか。
本来クチにすべきではないし、考えたとしても心の奥底にしまいこんでいたものが、
そしてそれを吐き出すために日記の中に書いてページを閉じられていたものが、
匿名だったり実名だったりでWEBに公開され、
共有されている、誰かに肯定されているという幻想を抱く。
無視されていると知って、逆上する。
しかし、さすがにそんなことはないか。
人には見られてはいけないノートの1つや2つ、だれでも持ってるか。
(僕はそんなのないけど。逆にTwitterやFacebookが雑な書き込みで溢れる)
それが使い分けられないというとき、とても危うい。
小学校では今も、書いてきた日記を先生が読んだり、
ホームルームで自ら読み上げたりしてるのかな。
その教育的効果って、どうなのだろう。
それはただの「物事を整理して書く」ための練習に過ぎなかったりしないか。
日記である必要はあるのか。
かといって隠れた私的領域を変に神聖化するのもまた、危険。
このバランスを取るのが、難しい。
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話変わって、日記ではなく、日誌というもの。
これは公開を前提としている。
一個人として書くものではなく、船長であるとか、
特定の目的で特定の役割を担うことになった人が日々書き記すもの。
半ば報告書的位置づけであるため、探検や航海の日誌は読みやすく、面白い。
そういうので面白いのがないか、探しているところ。