嘘というもの

昨日はエイプリル・フールだったので気の効いた嘘を、と思ったのだが
特に何も思い浮かばず。
年を取ったというか、つまらない人間になったというか。
正直な人間になったのではなく。
むしろ、何が面白いのかよく分からなくなった、というのが近い。


でもまあ普段からそれほど嘘は言ってないと思う。
苦し紛れの言い訳含めて。
あ、でも限りなく嘘に近い誇張はたまに言ってるな。


取り立てて周りの人に嘘を言わなくてもいい状況にあるのだから
僕の人生は穏やかで順調に進んでいるのだろう。
少なくとも、あのときの嘘が、と心苦しくなることはない。


だいぶ昔の仕事で、追いつめられたある人が
必死の形相でありもしないことを語っている場面を思い出した。
特に親しい人でもなかったけど時々ふっと記憶の底に浮かび上がる。
あの人はその後どうなっただろうか。
虚ろな目をしていた。その後、見かけなくなった。
嘘は、役に立っただろうか。誰かが助けてくれただろうか。


子供の頃、日常的に嘘ばっかり言ってた彼のことも思い出した。
何だったのだろう。恵まれた家庭環境にあるとは言えなかった。
そういうの、関係するのだろうか。
時々信じていた僕は、
駄菓子屋の当たりクジで当たったたわいのない玩具を
戻ってこないと知りつつ彼に渡していた僕は、
いったいなんだったのだろう。
中学、高校、上京して帰省して。
その後彼のことでいい話を聞いたことはなかった。


嘘というよりもそこにすがるしかない虚言のようなものか。
その人の中でそれは、そのときそう言うしかない何かなのだろう。
騙すつもりはない。だけど他にマシな選択肢がない。
口を開くことでさらに狭まっていく。
言葉とは恐ろしいものだ。
自らの吐き出す言葉で追い詰められていってることに
やがて気づかなくなっていく。
何も残らなくなって、引き返せなくなる。
その言葉は誰にも届かなくなって
人ではなく、獣になる。


…話は変わるんだけど、
昨日の google のパタパタ、よくわかんなかった。