柳田国男『海上の道』

ここ2週間、柳田国男海上の道』を読んでいた。
http://www.amazon.co.jp/dp/4003313860


遺作となる。
民俗学の分野におけるこれまでの研究成果の厖大な蓄積を元に
気になる事の些事を語っていく。まさに遺言。
これが民俗学を超えた日本の学問全般を視野に入れていて、
こんな広く深く滔々たる大河のような思いで書かれた本、初めてだ。
圧倒されて、少しずつ味わいながら読んだ。


例えば、
沖縄諸島で語り継がれてきた
海の向こうの彼岸、神々の住む異界としてのニライカナイ
日本列島に伝わるうちに「根の国」信仰と結びつく。
それはいつしか地底/冥さへとイメージが変転した。
かつて神の使い、ニライカナイからの使いとされた鼠は
「おむすびころりん」のような昔話として全国に伝えられる。
といったようなこと。


流れ着いた椰子の実から話を始めて、
我々は大陸から海を渡ってきた。稲や鉄と共に。
それが日本の神話を生んだ。
山に住むネットワーカーたちと表裏一体の関係を結んだ。
ゴーギャン
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
を思い出し、学問の豊穣、その源泉はここにあるのかと
僕はため息をついた。


正直、柳田国男の文章は読みにくい。
何を語るにも歯切れが悪く、
証明する根拠のないものをこうだろうかああだろうかと語るだけ。
仮説を証明する方法を持たない。
ただ、誰それがこの文献でこう言っていたというのを積み重ねるだけ。
あの地方の風物はこうなっていた、誰それの研究があった。
だから、聞き書きをそのまま文章にして
柳田国男の学問に対する毅然とした姿勢を重ねた『遠野物語』と
その近辺の書だけが読み物として面白い。


そもそも、その学問的成果もはかりにくいところがある。
著作は厖大だが、体系的な方法論がないから継承しにくい。
民俗学という学問分野を確立し、方向付けたという以外に評価しようがない。
あとは全て枝葉末節となってしまう。
有名な、カタツムリの名前の方言が
京都を中心とした同心円階層になっているとか。
あるいは例えば 巫女という職能。日本における女性の地位の変遷。
日本人の神の本質は祖霊であること。全国各地の祭りとの関係性。
それらの点を結んでいったときの
おぼろげながら浮かび上がってくる輪郭のようなものが柳田民俗学となる。


最後に。松岡正剛、千夜千冊から借りて、
http://1000ya.isis.ne.jp/1144.html


「知りたいと思う事二三」というメモの8項目。


これは柳田国男から僕らに託された「日本という方法」ではないか。


 1)寄物が貨幣としてどのくらい流通できたのか、
   それが都では呪物になったのはどうしてか


 2)弥勒の出現を海から迎える行事が
   ニロー神やニライカナイの島などとどういう関係にあるか


 3)鼠が海上をわたって島から島へ移ったという
  「鼠の浄土」のモデルがどこにあったか


 4)クロモジの伝承、香りのある木を形にして
   継承してきたのはどんな者たちだったのか


 5)能登半島の祭礼、
   アエノコトのような祭りはどこからやってきたのか


 6)稲を大事にすることと産屋を大事にすることは
   どこでつながったのか


 7)稲からとれた米を粥にして大事な日々に
   食べるのはどうしてか、そこに小豆が入るのはなぜなのか


 8)そういうことが儀式化されて
   宮中の儀礼にとりこまれたのは、なぜだったのか