耳というもの

3月3日はひな祭りの日であると同時に耳の日でもある。
頃合わせでもあるし、「3」が耳の形でもあるとのことで。
今、Wikipediaを参照したら
「三重苦のヘレン・ケラーにアン・サリヴァンが指導を始めた日であり、
 電話の発明者グラハム・ベルの誕生日でもある」
とあって、へー、そうなのかと。


視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚。
日々五感を使いながら生活していて、当たり前のように感じるけど、
これって実はものすごいことなんだなと時々思う。
触覚は基本的に触れる・離れるわけだから ON/OFF に近く、一番単純に実現できそう。
温度、熱へ反応して何かが閉じたり開いたり、狭まったり広がったり
というのもなんとなくイメージできる。
しかし、視覚や聴覚となると単なる ON/OFF ではなく
ONの間にも幅広い色彩や音階のバリエーションが存在する。
何をどうやったら生物は「音」や「光景」というものを
感覚情報として感じ取れるようになったのか。
その地道な積み重ねと突然変異的な飛躍のことを思うと気が遠くなる。


目は閉じることができるが、耳は閉じることができない。
この意味は何なのか、ということも気になる。
生物学的な意味と比ゆ的な意味と。
恐らくマブタは後から生まれたものではないか。
でも閉じる、視界を遮るために生まれたのではなく、
そもそもは外界からガードするためのものだっただろう。
耳の場合は外耳が外に広がるように発達した。
鼻の形も鼻穴からの距離もそういうことだ。


耳を蝶の羽に例えたのは誰であったか。
耳を羽ばたかせて空を飛ぼうと夢想したのは誰であったか。
ゴッホは自ら右耳を切断した。
右目を、ではない。
ゴッホにとって耳は不要なものだったのか。
それとも大切なものだったからこそ、削ぎ落としたのか。


「Dialogue in the Dark」では完全な暗闇の中での行動という体験ができる。
一方で「無響室」というものもまたこの世界には存在する。
大学の実験で使用されるものであって、気軽に体験できるものではない。
完全に無音の部屋の中で過ごすと人は発狂すると聞いたことがある。
記事を探したらあった。
http://www.gizmodo.jp/2012/04/high45.html


静けさというものも、透明な音の存在感があってこそ。