光と影というもの

先日の渋谷 bunkamura ミュージアムでのソール・ライター展を観て思う。
写真というものはその前身時代を含めて、モノクロームの時代の方が長かった。
色がついたのはつい最近のことなのだ。
(といっても既に50年以上は経過しているが)
芸術写真、報道写真、広告写真としても、どう。


僕らがモノクロームの写真に独特の懐かしさや美しさを感じるのは
その歴史的長さゆえなのか。
あるいはそのシンプルさゆえか。
その始まりは光と影を捉えて焼き付けるものだった。


人それぞれ違うのだろうけど
過去の記憶というものも色褪せて、
少しずつモノクロームに近づいていくように思う。
小さい頃の出来事で覚えているのは
その光景に映し出された事物の形であって、色ではない。
光と影の織り成す境界線や輪郭が最後に残る。


いや、人によっては、
色彩の感覚に優れた人は最後に残るのはやはり色彩なのかもしれない。
人によっては匂いや手触りなのかもしれない。


言葉によっては定義できない、名づけようのない、
全ての感覚が混ざり合ってそのどれでもないような、
ある種の原感覚のようなものかもしれない。
僕らの DNA の奥底に眠っていて、
それは何十億年も前、無機物が初めて生物になったときのような感覚。
その後光合成をするようになって、細菌もまた光と影を選別するようになった。
その頃の生物としての記憶をモノクロームの写真は揺り動かすのだと思う。


影絵というものもまた、独特な懐かしさや美しさを持つ。
極端な単純化ゆえに想像力をかき立てる余白を多く含んでいる。
モノクロームの写真も、現実の世界ではカラーのものを切り取ったのであって。
写したもの、写されたものの間の距離感に人は心を動かされる。
それは単に欠落した色彩を失うということだけではなく、
写し取られた過去の時間とそれを見る現在の時間との間に横たわるものに
思いをはせるということでもある。


instagram に写真をモノクロームにするフィルターがあるというのも
意味があることなのだ。
モノクロームを捨てきることができない、当然のようにそこにある、
というのが面白い。