火を渡る

妻の友人に阿蘇のお寺の住職の方がいて
僕も熊本行ったときに訪れたことがあるし、
東京に来たときは何度か食事会を楽しんだ。
 
この前お会いした際に聞いたのが、年に一度の「火渡り」祭りのこと。
4月13日に開催される。
このとき、一般の人も火の上を歩くのだと。
熱いからと言って走ると、風を巻き上げて余計熱くなる。
落ち着いて渡るのが肝要なのだという。
 
聞いてると僕もやってみたくなるが、
そうそう簡単に阿蘇まで行けるわけでもなく。
今年はたまたま土曜だけど、
ゴールデンウィークにも熊本行くことになっている。
 
確かに熱そう、不用意にやるとやけどしそうに思うが、
自分の中にあるものが浄化されそうな気もする。
 
文明化する前、火というものはコントロールできないものであった。
どうやって火をつけるのか、絶やさずにいるか。
コントロールできるようになってしまうと
温まるとき、炊事するとき、
身の回りの多くの局面から遠ざけられてしまった。
何かを大がかりに焼くということは一般人には許されていない。
BBQや焚火すらままならない。
それをイッキに解放する行為が戦争なのかもしれない。
一人の手に犯罪として託すのが放火という行為なのかもしれない。
解き放つ行為への誘惑。
 
火は本来聖なるものであるが、扱い方を誤ると身を亡ぼす。
文字通り焼き尽くす。
そこに身を委ねるというのが火渡りの醍醐味なのかもしれない。
生半可な気持ちではできない。
自分の中にあるもの、普段開けないものを見つめるのだと思う。