床屋に思う

荻窪の床屋へ。朝イチで切ってもらう。
コロナのこと、天候のこと、近所の再開発のこと。
マスターの取り留めない話を聞く。
 
先月も聞いたが、全国平均で床屋に一日何人のお客さんが入っているか、
という話になる。
……3人。
それじゃ食べてけないですよね、と僕が言うと、
 
「だから今、農家とか兼業の人もいるし、
そういう状態だと息子に継がせようという人も
親父の仕事を継ごうという人もなかなかいないよね。
これから先床屋はもっともっと減るだろうね」
 
なるほどなあと思う。
技能実習生を東南アジアから呼んで、というわけにもいかない。
マスターもそういう話聞かないね、という。
 
いろんな問題を抱えていると思う。
資格検定の面でどうなっているかはわからないが、
日本で技術を習得したいという南米や東南味の若い人は多いのでは。
しかし、彼らに髪を切ってもらいたいかというと僕は躊躇する。
心のどこかに差別があるというのは否めない。
自分の体に触れてほしくない、というような。
ちゃんとできるのか、と疑問に思うとか。
言葉がうまく伝わらない人に鋏をもって髪を切ってもらうのはなんかどこか怖い。
腹の底で分かりあっているという、その何かが欲しい。
……こんなところに自分の差別意識があるんだな、と気づいた。
心の底では信頼していない。
 
そもそも床屋って単に髪を切る、切られるだけじゃなくて
それ以上のコミュニケーションがある場所なのだと思う。
別な状況を考えると、
何年か前から知っている外国人の若者がいて
酒場などで会うとよく話していた。割と話が合う。流ちょうに日本語を話す。
その彼ないしは彼女が数年かけて日本で理容師、美容師の資格を取った。
店を構えた。
そういう場合にはその店に行って普通に切ってもらうだろう。
それまで酒場で交わしていたように話をするだろう。
 
ああ、そうかと思う。ここまで書いてきて気づいた。
僕は今の床屋に通って25年近くとなる。
他に行こうと思わない。
それは関係を築くのに時間がかかるからで、
日本人だろうと知らない人に切ってもらうのは躊躇する。
例え切ることになったとしても
その人のことが信頼できるだろうかと最初のうちは落ち着かないだろう。
 
言葉の通じにくい外国人だとその距離はさらに大きくなる。
そういうことか。
 
マスターの店は東北在住の方など遠方から通ってくるという。
お客さんにこういうところに住んでいて、という話がよく出てくる。
これはマスターの人柄もあるけど、
なじみの床屋って一度見つけてしまうと基本的に変えにくいのだなと。
それは椅子に座って身動き取れない状態で
自分の中の何かを託すことだからだろうな。
その託した何かがきちんと返ってくる、というのが床屋の心地よさの一つなのだと思う。