なぜ僕らは青森に帰らずに、東京に居続けているのか?

先日、高校の友人と飲んでて話したこと。
「なぜ僕らは青森に帰らずに、東京に居続けているのか?」


このご時世、amazon だの楽天だのといったサイトがあれば確かになんでも手に入る。
そこに在庫があるかどうかは東京に住んでようと青森に住んでようと全然関係がない。
それ以前に、インターネットがあれば
情報を発信することも受け取ることもどこにいようが可能なわけで。


インターネットに限らない。
例えば、たぶん日本各地で同じことが起きてるんだろうけど、
「郊外の大型店舗がさらなる充実化に向かっている」
「成功したチェーンストアが日本全国を覆ってる」という事実。
例えば青森県五所川原市には「エルムの街」という
巨大なショッピングセンター(+イトーヨーカドー)があって、昨年初めて訪れてみた。
オープンしてもう何年にもなるのに、賑わっている状態が依然として続いていた。
しかも平日だというのに混雑していて、空きテナントもない。活況を呈していた。
KALDI COFFEE FARM」という輸入食品を扱う雑貨屋が中にあって、
世界各地のコーヒーだけじゃなく、珍しいワインやチーズやドレッシングが売られている。
KALDI」は日本全国に店舗があって、
青森にいながらにして東京と同じものを買うことができる。
この「KALDI」に限らず、「エルムの街」には
ABC-MART」や「graniph」や「NICE CLAUP」や「COMME CA ISM」などなど出展していて
ニッチなこだわりがなければ、
全国平均的にお洒落とされるものが手に入るようになっている。


普通の人だったら、これだけあれば十分だろう。
余計な欲がなければ、それなりに豊かな消費生活を送ることができる。
だったら僕らもそれに乗っかればいい?
買おうと思えばなんだって青森で買えるんだし、
多少マニアックなものも通販でオーダーできるでしょ?
表参道で売られている服だろうと初回限定生産のDVDだろうと
カリフォルニアのワインだろうと北欧のインテリアだろうと。


いや、僕らが求めているのはそういうものではない。
「買おうと思えば買える」という時点で選択肢は限定されている。
そのとき、人は「売られていると知っているもの」を買っているに過ぎない。
そしてそこのところの情報量は案外少ない。


東京に残った僕らが求めているのは
そもそもが情報過多で収拾がつかなくなった状態なのではないか?
その混沌が好きだからではないか?
玉石混交のどこかに可能性があると信じて、いまだ追い求めているんじゃないか?
そしてそういう自分が好きなんじゃないか?
少なくとも僕はそういう人間なのだと思う。
何か思いがけないものに出会える可能性。
それがなかったら、生きていけない。
仕事して遅くなって帰って寝るだけの毎日だったとしても
東京と青森ではその間に流れている情報の質と量が全然違う。
そしてその情報が氾濫している状態を目の前にして僕は「疲れ」や「めまい」を感じない。
反射神経が鍛えられていて、その瞬間ごとに都合よく取捨選択を行なっている。
つくづく、東京が向いているのだろう。
逆に、青森では暮らしていけない。いろんなことの密度が薄すぎて。持て余す。
インターネットがあればいいというではない。
皮膚感覚で感じる全てのものが必要なのだ。
とてつもないスピードで移り変わる、その流れに身を任せるということ。
その心地よさ。


ちょっとずれるけど
話題の劇団の公演を見る、海外から来たバンドのライヴに行く、
美術館でふらっと絵を見るってのも地方だとあんまり機会が無いしさ。
よくわからないけど有名な人がここまで来たから見に行ってみるかってのを
ありがたがっててもなんだかな、っていう。
積極的にアンテナを張り巡らして自分の見たいものを見に行く、
欲しいものを探し回るってことに楽しさを見出す。
そんなふうでないと。


うまくは言えないけど、そういうこと。
なぜ僕らは青森に帰らずに、東京に居続けているのか?