「テクストの快楽」

編集学校の教室にて、
松岡正剛校長の千夜千冊のリンクを1人1冊ずつたどっていって、
どんな軌跡を描くだろう?っていうのを「遊び」としてやっている。


■千夜千冊
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya.html


その中で、この前の土曜日に書いたこと。
長文となりますが、がんばって書いたのでここにも載せます。

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こんばんは。岡村です。


学生時代は見事に現代思想かぶれでした。
ロラン・バルトも何冊か読みました。もちろん翻訳ですが。
「零度のエクリチュール」とかですね、
人知れず読んでる自分がかっこいいなんて思っちゃうわけですよ。
1回読んで終わり。ちっとも理解せず。
ほんとにモノにしたかったら何度でも読み返せばいいのに、
求めるのは何冊読んだというかっこよさだからすぐ次に行ってしまう。
今思うとかなり恥ずかしい。


「テクストの快楽」も何が書かれていたのかちっとも覚えてません。
校長も言うように、
字がめちゃめちゃでかくて余白が大きかったことだけ印象に残ってます。
学問、身につかず。


当時の僕はロシア語専攻だったことから、
言語哲学ミハイル・バフチンを研究テーマとし(そして挫折)、
「他者」とか「対話」というキーワードにどっぷり漬かり、
「言葉」とか「物語」というものを考え続けていました。
それが10年後、ISIS編集学校の門をたたくことになったのでしょう。


話変わって。昨日、「知の編集工学」を読み終えました。
主体と客体の問題が興味深かったですね。
まさに僕が学生時代に考えていたことです。


主語と述語の箇所が目からウロコでした。


p.278-279
‖西田幾太郎は「無」を媒介した述語理論が成立しうるという論述を
‖したうえで、こう書いた。「判断というものは、じつは主語を述語が
‖包摂することなのだ」

‖これは、「特殊」としての主語にたいして、述語が「一般」である
‖ことを強調したものである。そのため、人間の知識は、この「一般」の
‖無限の層の重ね合わせとして理解されるしかないのだととらえられた。
‖いいかえれば、人間は自分自身の底辺にある「述語面」で、あらゆる
‖意味と意味のつながりを連絡づけているということだった。西田は
‖このことを「述語的統一」とか「逆対応」という言葉をつかって説明
‖した。そしてついに、「意識の範疇は述語性にある」というとびぬけて
‖すばらしい結論を出したのだ。

‖私が「編集工学は述語性を重視する」と言っているのは、ここである。
‖私たちは主語を強調したことで思索の主体を獲得したように見えて、
‖かえってそこでは編集能力を失い、むしろ述語的になっているときに
‖すぐれて偏執的なはたらきをしているはずなのである。


僕は逆に思っていました。
主語にこそ可能性の選択肢があって、はじまりを告げて、
述語が断定して、ピリオドを打ってしまうのだと。
つまり、コンテクストを生み出すのが主語で確定するのが述語。
そうじゃないんですね。述語こそがつなげていく。めぐっていく。


というわけでまた長くなってしまいました。


で、大事なことは、どのページだったか忘れたのですが、
ミシェル・フーコーコンパイル的でロラン・バルトはエディット的だ
とあって、感覚的には「あ、言えてる」と思いました。

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(20)【名前】オカムー


【選んだワード・センテンス】
 ロラン・バルト


【出てきた本】
 第七百十四夜【0714】2003年02月17日
 ロラン・バルト『テクストの快楽』


【一言感想】
 テクストの中。テクストの外。その境界線で起こる物事。
 テクストの中のテクスト。テクストの外のテクスト。
 無限に続いていって、じゃあ結局のところどこに何があるの?


 そこには綴じられた紙の束があって、主に白い色をしていて、
 その上に主に黒のインクで文字が、言葉が印刷されていて、
 それはなんらかの目的のために何らかの法則性に基づいて
 延々と配列されている。


 主要な登場人物として、そこには書き手と読み手とが存在する。


 #余談? 別な次元の考察ならばそこには生産や流通や評価といった
 #立場も存在するが、究極的にはこの2者となる。


 #余談? この2者が応答しやすいように、スタイルやモード、
 #あるいは文体やジャンルといったものが生まれる。


 彼らが交換するものは結局のところテクストなのか?
 じゃあそれは何のために?
 それがつまるところ、快楽ってこと?

 
 そう、快楽原理の働かないところには物事は発展しない。


 果てしない応答/快楽の連鎖がひいては、
 インターテクスチュアリティをもたらす。
 冒頭の、テクストの中のテクスト、テクストの外のテクストにつながる。


 ---
 テクストがテクストとして成立する前の状態が存在するとする。
 そこに記されるべき関係性の再定義こそが
 編集なのではないかと僕は考える。
 なのでそれは常に流動的である。硬直化させてはならない。
 快楽が失われる。


 編集学校で全ての回答が仮留めとされるのも、そういうこと。

テクストの快楽

テクストの快楽