「1Q84」 たぶんその3

下巻の200ページを水曜に読んで、残り300ページを木曜に読んだ。


下巻の途中から、若干、進行が停滞したように思う。
以前述べられたことが繰り返されるようになった。
そこで語られるべき物語の枠組みが、遂に全て出そろったということなのだろう。
お膳立ては整った
逆にそこから先、読む側からすると物語が加速していくことになる。
ハッピーエンドなのかアンハッピーエンドなのか分からないけど、結末、終極に向けて。
言葉が突き進んでいく。

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青豆と天吾は「物語」に翻弄される。
「運命」ではない。
(僕の気づいた限りにおいて、「運命」という言葉は出てこなかったように思う。
 少なくとも、これだけのストーリーを描いておきながら、重要なキーワードではなかった)


ここで上巻、冒頭のエピグラフに戻ってくる。


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ここは見世物の世界
何から何までつくりもの
でも私を信じてくれたなら
すべてが本物になる


It's a Barnum and Bailey world,
Just as phony as it can be,
But it wouldn't be make-believe
If you believed in me.


"It's Only a Paper Moon"
(E.Y.Harburg & Harold Arlen)
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この歌詞が、「1Q84」の全てを語っている。


物語には、虚構も現実も存在しない。
本物として信じるかどうか、その中に生きるかどうか、ただそれだけである。

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90年代以後の作品ではベスト。
ねじまき鳥クロニクル」なんかよりも。
語られた全ての物事が必然性に貫かれている、というのがいい。
海辺のカフカ」にはまだ、ご都合主義的な展開、描写、言葉に頼るところがあって、
そこのところはやはり緩かった。
1Q84」はパーツの組み合わせとしてどこか緩い箇所があるというレベルではなくて、
トータルな物語世界として全てが構築されきっている、という印象を受ける。
しかもそれは、最初から無傷なものとして生まれたのだ。
ものすごく大きな文学的達成だと思う。
日本文学としても、世界文学としても。


19世紀ロシアの「カラマーゾフの兄弟」や「アンナ・カレーニナ」に比べたら、
スケールの大きさや登場人物たちの形而上学的な悩みの深さとしては
はるかに「及ばない」かもしれない。
しかし、その時々の文学で何を描けるか、何を成し遂げられるか、という意味では、
同じぐらいのインパクトを持つものとして後世に語り継がれるのではないか。


この世界とはどういうものなのか。
物語とは何なのか。
人が生きる、生きていくというのはどういうことなのか。
例えそれが不完全なものだったとしても、私たちはそれを生きていかなければならない。


村上春樹はこの作品で再来年ぐらいにノーベル文学賞を獲得すると思う。
物語という名の世界、世界という名の物語。
21世紀の今、最もアクチュアルなテーマに対し、
一人の作家として最大限に誠実な回答をもたらしたということで。

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物語であって、神話ではない。
次に向かう領域は、「神話」なのではないかと考える。