境界領域の錯覚

半径3mぐらいの目の前に見えるもの、聞くもの、触れるものの中に
充足して日々を生きている。
気がつくとただ家と会社とを往復している。
その間電車や地下鉄に乗る。コンビニとスーパーマーケット。
トンネルの中で暮らしているかのようだ。
それをリアルとかリアリティって呼んでいる。


そこから先、知覚の領域を広げるといきなり「世界」となる。
グローバルなネットワークによって絶えず発信される情報の渦の中から
誰かがより分けたものを垣間見てつまみ食いして、テレビやインターネットで
アフリカで暴動が起きていることを知る。
ニュージーランド地震が起こったことを知る。
もっと近い距離で沖縄に台風が来たことを知る。
東北地方で桜が咲いたことを知る。


その中間がないことに気付く。
バーチャルな領域がどんどん広がって、全てが一緒くたになっている。
アフリカも東北もインデックスに過ぎない。
とりあえず、向こう側。


じゃあ、ここは?
街を歩いていて、半径3mを超えた視界の端に映っているもの、
気にも留めないものが既にしてバーチャルなような錯覚を受ける。
僕の興味のないものは誰かがどうにかしとけばいいんじゃないの、というような。


関わり合いを持つ、広げる、つなげるということを放棄してしまっている。
境界領域の外、あるいは境界領域そのものに対して、
誰かに任せておけばいいという考えの方が錯覚なのに。


そう、境界領域に触れるという感覚が退化している。めんどくさがっている。
いやいや半径3mの先には手が届かないじゃないか、ということではなくて。
そこに、その場や空間に、積極的な意味を見出そうとしていない、というか。


昔の人はそういうところに敏感だった、ということになるのか。
家屋の外に目をやると青々とした木々が揺れていて、鳥が飛び立ったところだった。
それを和歌や俳句に詠んだ。
その情景は何に見立てられるかというところにまで思いは及んだ。
そのうちのいくつかが後の代まで語り継がれていった。
それはどれもがこちら側に引き寄せる行為だった。


デジカメで撮影してブログに載せるのと何が違う?
もっと世界中の人に発信できるでしょ?
と今の人は思うかもしれない。しかしそれは何かが大きく異なる。
全てを向こう側に放り投げてそこで完結させようとする。
デジタル化された思いや意見のやりとりも向こう側に置いておかれたままとなる。


その場でしか体験できないこと、味わえないことをもっと求める。
そこで出会う人たちとその場で声や言葉で共有する。
そうでなきゃいかんよな、と今更ながらにして思う。
そんなゴールデンウィークでありたいと思うのだが。