プライヴェートな領域

先日メールが届いて、大学の寮の友人が今週末結婚式だという。
3・4年の1人部屋の方ではなく、1・2年の4人部屋の方。


これまで何度も書いてきたことではあるが、
上京してきたばかりの18歳から20歳にかけて。
朝まで飲んでたり麻雀を打ってたり。人生で最も楽しかった。


それだけでなく、人として最も多くを学んだ時期のようにも思う。
今日の朝通勤電車の中でこんなことを考えていた。


4人部屋はベッドにカーテンがあるぐらいで
自分だけの空間というものが原則的に一切ない空間だったりする。
そういう場所で2年間過ごして、プライヴェートの何たるかを皮膚感覚で知った。
それは個室として壁やドアがあって
物理的に閉じられる場所がないと保たれないものではなく、
目の前に1人の生身の人間がいるというとき、
彼ないしは彼女に関するパブリック/プライヴェートな領域が
都度文脈に応じて周囲に発生している(切り替わっている)ということだ。
そしてそれはパブリック/プライヴェートどちらのモードであっても、
土足で踏み入れるべきものではない。
そこは察しなければならないし、触れるにあたっては手続きが必要となる。
その無数の非言語コミュニケーションの連鎖のフォーマットとパターンを
学校や家庭で知らず知らずのうちに学習して
人生のこの頃にようやく世の中の仕組みとして意識するようになる。


生まれてからずっと多くの時間を個室で過ごしているならば、
そこのところの皮膚感覚が弱くなるのではないか。
他人のモードを察して触れるということ、自分のモードを切り替えるということ。


うまくは言えないが、
日々何らかのジャンルに関する妄想なり白昼夢に浸ることがあったとする。
それは性的であったり暴力的であったり差別的であったり、
どれだけ親しかろうと口には出せないことだったりする。
誰もがそういう何かを多かれ少なかれ抱えていると思う。
それが個室の中でしか解き放てないとなるとどこかに危険な要素が生まれそうな。
時として”モンスター”とか”心の闇”と呼ばれるものが
巣くって肥大化して、ただれていく。
そしてそれをどうにかして隠そうとする。さらに手に負えなくなっていく。
うまく言い表して他人と共有する可能性を探らないことには、救いようがない。


いや、閉じこもる人は公共の場所にいたとしても一人きりポツンとして
周囲を遮断するだろう。さらに摩擦を大きくしながら。口をつぐんで。
(そして東京にはそういう人たちがたくさんいるはずだ)


そこにはパブリックとプライヴェートの境界線がなくなってしまっている。
あるにはあるんだけど、その人自身は奥に引っ込んでしまっている。
何が怖いってパブリックの領域が怖いのではなくて、境界線に直面することが怖い。
そこを踏み越えられない自分に出会うのが怖い。


そう、4人部屋にて僕らが日々出会い、
様々な間違いを侵しながら潜り抜けていたのは
それら剥き出しの境界線だったのだ。


あのときの経験がなかったら今頃僕は・・・


その可能性をあれこれ考えているうちにオフィスに着く。
仕事を始める。多くの人々と接する。
昼になり、夕方になる。オフィスを出た僕は人ごみの中にまぎれていく。