死体というもの

碑文谷公園の池から切断された死体が見つかった事件。
天王洲アイルの運河から死体の入ったスーツケースが見つかった事件。
想定外の場所から手の込んだ死体が見つかる事件が最近増えているように思う。
気のせいだろうか。
殺人行為もレベルが上がってるのだろうか?
という話をしていたら、こんなことを言われた。


「それって逆。
 昔はもっと巧妙でプロが隠した死体が見つかることはなかったけど
 今はアマチュアがネットで見たあれこれを元に自分でやろうとして、
 むしろ質が下がっている。
 何かが抜けている。不自然なことをしてしまう。
 だから見つかりやすい」


ふーむ、そうだったのか。


「全国にどれだけの死体が見つからないまま転がってることか。
 数えたらとんでもないことになるよ。
 山奥のさ、道をちょっと外れたとこなんて白骨死体がゴロゴロ。
 都会も案外見つからない。
 匂いが取れるまで業務用の巨大な冷蔵庫に隠しておく。
 あるいは殺した直後、腐乱の始まる前にすぐバラしてしまう。
 初めてだと一週間か二週間はかかるけど。
 処分の仕方は、かなり細かくして味噌に混ぜて一緒にゴミに出すとか。
 それもきちんと曜日ごとに決まったものを出しているゴミ置き場じゃなくて、
 ルーズなとこがいいな。もちろん遠くのね」


死体がそれだけの数になるということは、殺した人もまたそれぐらいになる。
彼らは罪の意識に苛まれたり、そうじゃなかったりしながら
僕らと隣り合わせの日々を過ごしている。
それだけの理由があって殺したのだろうけど、そうでもない人もいる。
理由があるだけありがたいと思うと友人は言う。


「生きるってことにも、案外たいした理由がないものだしね。
 昨日まで生きていたから今日も生きている。
 その積み重ね以上のものはあるか?」


そう言って笑う。
昼休みを終えて店の外に出る。
大勢の人たちがオフィスビルの中へと吸い込まれて行く。
たくさんの死体たち。
自分もまたそのひとつ。