「あなたがこれまでに食べた一番おいしい食べものはなんですか?」

どちらもくることはなく、かなり時間がたってから先生がきてくれた。
たのんでもいないのに。肩でハーハーいってた。
いつものヨレヨレのネクタイと背広で。
すこしはなれたところから見てたら小声でなんかいってて、
何回も何回も頭をさげていた。
そんなことしてくれなくたっていいのに。


「さあ、帰ろう」と先生はいう。
ここからはやくでたい。でたくてでたくて仕方がなかった。
しめきった部屋で、せまくて、蛍光灯がジジジってしててなんか変なにおいがした。
パイプ椅子にすわってる男も女もたよりなくてメガネをしてて、いやだった。
かばんを持ちあげて先生の後をついてでる。
「なにもいわなくていいのか?」
というので振りかえってちょっとだけおじぎをした。

半分ぐらい物置になった階段をのぼって地上にでた。
繁華街のあかりがまぶしかった。いつも以上にうるさかった。
客引きのやすっぽい男が「さ、お客さん、キャバクラいかがですか?」と声をかける。
先生は右手をちょちょっとふって断った。
今思えば、なんでそのまま先生についていったのだろう?
気づかれないように反対方向へダッシュしたってよかった。
でないっていわれてるパチンコ屋、店がかわってばかりの牛丼屋、
ネオンの看板のすみっこがこわれたショーパブってかかれた店。
先生はゆっくりと歩いてこちらをふりむくことはない。
だけどその背中は、わたしがついてきてることがわかってた。


ひとつ折れて商店街にはいって、しばらくすると先生はとまった。
「はら、へってるだろ? ここよく来るんだ」
中華料理屋、というかラーメン屋だった。
こんなとこにこんな店あっただろうか? しらなかった。
先生がドアを横に引いて、わたしがしめた。
せまい店はカウンターに客が何人か、テーブル席はどれもあいていた。
その奥まで行った。丸椅子もはげたテーブルもがたがた、ぐらぐらする。
となりの椅子にかばんをなげた。


なかで白衣のようなものを着たおじいさんがひとりでつくってて、
白い布をかぶったおばあさんがトレイに水のはいったコップをのせてはこんできた。
壁の黄色く色あせたメニューを見て、先生は「チャーシューメンと餃子」という。
どうする? とこっちを見る。
たしかにおなかはすいてたけど、なにかを決めたいという気持ちではない。
「おなじの」とつぶやくと
「チャーシューメン?」と少しおどろいていう。
「あ、ラーメン」といいなおす。


テレビが野球をやっていた。
「今年のカープはつよいな」と先生はひとりごとをいう。
カウンター席の手前の男性が半分のみほしたジョッキを前にして煙草をすっている。
他の客はみんな、白い半袖のYシャツを着たサラリーマンだった。
先生はこのあついなか、背広の上着も着ていた。
店は冷房がきいてなくて扇風機が2台うごいているだけだった。
先生ははげかかった額のあせを何度もぬぐった。


やがてラーメンがでてきた。
先生は最初に「餃子食っていいぞ」といっただけで
体に悪そうなぐらい胡椒をふりかけると
私がいるのも忘れたのか、すごいいきおいでラーメンを食べた。
わたしはゆっくりゆっくり食べて、半分残した。


食べ終えてスープの残ったどんぶりを前にして先生はいう。
「なあ、テレビ見るよな?」
わたしはきょとんとした。
北の国からの再放送やってるだろ? 先生の小さい頃にもやってた。
 あれ、ビデオに録画して見てるんだ」
名前を聞いたことはある。だけど見たことはない。
だまっていると先生はひとりで続けた。
「もうずっと昔のドラマ。北海道の丸太小屋に住む親子の話。
 田中邦衛がお父さんで。知ってる?」
わたしは思わず、首をふっていた。


「いつだったかさ、ふもとの小さな町に出て、夜、ここみたいな食堂にはいって
 息子と娘と三人でラーメンを食べることになった。
 だけどその前に丸太小屋が火事になって
 それが息子の火の不始末で警察にもいってと大変なことになって、
 息子はそのラーメンを食べることができない。
 しかもその息子は、吉岡秀隆だったんだけどさ、純って名前で、
 警察署でうそをついて、一緒にいた友達がやったっていってたんだ。
 それをやっと父親にいうことができた。
 そこに店のおばさんが来て、閉店時間ですとどんぶりをさげようとする。
 そうすると田中邦衛が立ち上がって怒り出して、
 子どもがまだ食べてるじゃないですか!
 床にラーメンのはいったがどんぶりがガシャンとなって、
 娘と、蛍っていう名前の娘と田中邦衛がかたづけた」


だからなに? なんなの?
目の前のどんぶりにはのびかけたラーメンがのこっている。
これを食べろということ? まさか、そんな。


「うったー! おおきぃー!! はいったー!!!」
店にいた人みながふりかえった。
先生も「お、ホームランか」としばらくながめていた。
たくさんの観客のなか、歓声をうけてゆっくり走ってる人がいて、
その後ひとり立ちつくして、うなだれている人がうつった。


「まあ、いこうか」先生が立ちあがって額をぬぐった。
わたしもかばんを拾いあげた。
先生がレジでお金を払ってくれた。
店をでてわたしは、「ごちそうさまです」と小さな声でいった。


そこから先のことはよく覚えていない。
マンションまで送ってくれたのだろうか。
きっとそうだろう。家のなかでひとりきり、眠ったのだろう。


先生が授業中に話していたことはなにひとつ覚えていない。
教科がなんであったか。どんな冗談をいったか。
なのにこの日のことが忘れられずにいる。
先生が具体的になにをしてくれたわけでもない。
むかえにきて、一緒にラーメンを食べた。テレビの話をしてた。
ただそれだけのこと。


先生は校長先生や教頭先生になることはなく、
えらくない普通の先生のまま、昨年、定年退職したと聞いた。