新宿のディスコ

妻ととある件について先日話していたらテーマはディスコがいいんじゃないか、
ということになって野田努『ブラック・マシーン・ミュージック』を書棚から取り出した。
試しに読んでみたら面白いという。妻はアスキーアートでミラーボールをつくり始めた。
(ちなみに、その筋の方に補足するとテクノ専門誌『Ele-King』の編集長を務めた野田努氏は
 若い頃編集工学研究所で働いていたと聞く。
『情報の歴史』の奥付を確認するとスタッフとしてその名前がある)
 
ディスコ。思い出すのは上京してすぐの頃。1993年。
4人部屋の寮に入って毎晩酒を飲んでいた、というか飲まされていた。
いつもは集会所でビールのケースを逆さにしてお立ち台をつくってだったけど、
いつもそれじゃ飽きるということでいろんな趣向を凝らしたイベントがあった。
そのうちのひとつに新宿のディスコに行くというものがあった。
所属するブロックの先輩が何人か引率する。
西武線から中央線に乗って新宿へ。
歌舞伎町のどこかの雑居ビルの中だった。
 
フロアは薄暗くて、案外広い。
音楽がかかっていたけどどんなだったのか覚えていない。
その頃流行りだしていたいわゆるクラブミュージックだったのか、
それとも70年代のディスコクラシックだったのか。
脇の方に立食パーティーのように食べ物が並んでいて、
飲み物はカウンターにもらいに行くんだったか。
 
ほとんど客はいなくて、踊っていたのは数人ぐらいか。
若者が一人無言で、ブームも終わりかけていたパラパラの練習をしていた。
素人目にも下手だったけど、かといって僕に真似できるわけでもない。
こういうひっそり練習する場所って都会の片隅に必要だよな、と今でも思う。
 
一ヶ月5,000円の寮に住んでるぐらいだから僕らのほとんどが地方から上京していた。
高校時代からディスコやクラブで遊んでました、という人はほぼ皆無。
踊り方を知らない。皆、モジモジしていた。
見よう見まねでやってみて楽しく過ごせるという人がそれでも半分ぐらいはいたか。
 
1時間か2時間か過ごしたあと、このまま帰るのも何だということか、
皆で村さ来とかその手の安い居酒屋チェーンへ。
そこで散々飲まされて、歌舞伎町の広場に出る。
寮委員長が出てきて音頭をとって肩を組み、イッキのときの歌を大声で。
真ん中にポールがあって何人かがてっぺんまでよじ登ってみようとして、それをはやし立てた。
飲みすぎてその場で吐いていた人もいるかもしれない。
その歌の盛り上がりの部分が
「いっきょういっきょういざふるえ、いっきょういっきょういざふるえ」
となっていて、通りがかった大人がわざと聞こえるように
立教大学の学生か、ひでーなー」と吐き捨てて去っていった。
たぶんこのディスコ→居酒屋→広場で騒ぐというのはこの頃毎年、行事としてやってたと思う。
立教大学のみなさん、ほんとすみません)
 
ディスコに入ったのは後にも先にもこの時だけ。
その後大人になって音楽の幅がロックから広がるとともに
ディスコミュージックも聞くようになる。
だけどそこでいうディスコとは僕にとってバーチャルな空間のまま。