広島へ その5

(3日目、16日のこと)
 
前の晩寝たのが遅くて、目が覚めると8時前。
本当は6時起きで大浴場に行って、7時には朝食バイキング、
8時前にチェックアウトして原爆ドームと平和記念資料館を見に行くつもりでいた。
東京に戻る新幹線は11時。
 
昨晩買った服を着るので、妻が鋏を借りてきて欲しいという。
14階のラウンジに行くと朝食バイキング待ちの人たちがソファーに座り切れず溢れている。
その30分後ぐらいに妻と向かうとそれほど待たずに入ることができた。
メニューが昨日と違ってて、また腹いっぱい食べてしまう…
鶏肉とキノコの白味噌のクリーム煮であるとか。
さすがにこの日はシャンパンは飲まず。
 
食べ終えて部屋に戻ってテレビの画面からチェックアウト。
ルームキー代わりのカードを部屋に置いていく。
インターゲートホテルはこういうところもまた進化している。
9時過ぎ。せっかくだから原爆ドームは見て行こうとタクシーを捕まえる。
昨日買って飲まなかったカップの氷や
ラウンジでテイクアウトしたホットコーヒーを両手に持って乗る。
 
八丁堀駅の交差点にすぐ出ることはなく裏通りをしばらく進んで路面電車の通りへ。
ホテルからは3ブロックほどなのですぐ着いた。
原爆ドームの前には大勢の外国人観光客が集まっていて、英語のガイドを聞いていた。
ドームを前にして自撮りで記念撮影をする人たちもいた。
アメリカ人なのだろう、車椅子の老人がゆっくりと押されていた。
この日もまた日差しが強かった。
8月6日の暑さはこんなものではないだろう、容赦なかっただろうということを思う。
無言で、内側を支えで補強されて、原爆ドームが立っている。
 
原爆の子の像、平和の鐘、今も世界中から届く様々な色の折り鶴たち、
「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませんから」と掘られた慰霊碑。
時間はまだあると平和記念資料館にも入った。
こちらもやはり外国人観光客が多かった。
原爆投下前の広島の街並み、小学校で撮影されたクラスの集合写真、その無邪気な笑顔が切なかった。
投下直後の広島、地獄絵図となった広島、生き延びた後もまた地獄となった広島。
記録写真と、無名の方たちの描いた絵画と。
キノコ雲を遠くに写した写真の端の方にあれはなんだろうと眺めている人たちがいる。
川に浮かんだ女学生の遺体、少しずつ体の形を失っていくのを毎日スケッチした人がいる。
父親が働けなくなって、周りからも白い眼で見られ、バラバラになった一家。
バスの入り口に黒焦げとなっていた遺体、その側に転がっていた幼児の死体。
肌のめくれて、血のにじむ傷だらけとなって、それでもまだ生きている人たち。
残された記録はごくわずかで、この地上に放たれた痛みのほんの僅かさえも掬い取ることができずにいる。
語り部として活動されてきた方たちも高齢となった。
僕らが小学生、中学生だった1980年代と今の若者たちでは受け取り方も違うだろう。
10時を過ぎて外国人観光客が増えた。
広島に原爆投下されてからの日数と、最後の核実験からの日数をカウントした時計が隅の方に立っていた。
 
タクシーに乗って広島駅へ。
カープのユニフォームを着た老若男女が大勢いた。
こんな時間から? と妻が調べてみたら14時からヤクルトと試合だった。
柿の種ならぬ勝ちの種などお土産屋もカープインパクトが強い。
強いきずなで市民と一体となった球団。広島の人がうらやましく思えた。
お土産を買う。僕も「レモスコ」に唐辛子の入ったカープ版を買った。
他、牡蠣醤油や広島限定で牡蠣エキスの入ったオタフクソースなど。
朝食バイキングでまだまだ腹は減らず、駅弁の類は買わず。
缶ビール・缶チューハイも飲まず。
家に帰って飲みながら食べようとホルモン天ぷらや練り物の店でがんすを買った。
 
新幹線は広島始発。
最初のうちはスカスカだったのが新大阪で9割方埋まった。
名古屋を過ぎた辺りから晴れていたのが雲が出始めて、東京に近づいた頃にはどんよりと曇り。
東京は一昨日は寒かったのがこの日は少し蒸し暑い。
昨日軽く日焼けして腕が真っ赤だったのが、既に元の色に戻っている。
 
新宿で大江戸線に乗って帰ってくる。
駅を出ると地面が濡れている。雨が降ったようだ。
家に着くとみみたがお出迎え。お留守番ありがとう。
荷物を片付けて、iPhoneで撮った写真をPCに取り込んで、
妻の運転する車でライフに買い物へ。
明日の弁当のため、きんぴらごぼうをつくる。
3連休も終わり。次の3連休が待ち遠しい。