サンプルA

街を歩いていてふとした瞬間に
「あー、自分は世の中に必要とされていないな」と気づくことがある。
それで悲しくなる、寂しくなるというよりも、
なんというか空虚な現実分析として冷静に受け止めて
「そっか」と思ってそれっきり、というような。
 
自分は社会に対して何の役にも立っていない。
いや、役には立っている。
税金を払ったり、毎月の給料に基づいて消費して経済活動を回してるとか。
でもそれも頭数の一人として割り当てられているというに過ぎない。
自分は匿名、無名の一個人に過ぎず、いくらでも代わりはいる、
いなくなっても何かが目減りするだけ。
 
(もちろん、家族や友人関係といった
 僕という人間の存在が認知されている中であっても
 いなくなってもよい、問題ない、ということではない。
 あくまで抽象的な社会とか世間とか、世の中というものに対して)
 
もっと言うと、こういうことだと思う。
街ですれ違う人、自転車で追い抜いていく人、いろんな人がいて、
僕はその人たちのことをよく知らない、
どんな人で何をしているかわからない。
その人たちを僕は今この瞬間必要としない。
いなくなっても気づかない。
その裏を返すと、僕だってそうだ、ということ。
 
画一化して無味乾燥な世の中に
僕もあなたも埋もれていって何も残らない。
 
それでいいのかと若い頃は思ったけど、
最近はそんなもんだよな、と考える。
それは諦めというのとはまた違って。
世の無常というか。
しかし、それを無常と呼ぶことも諦めなのか。
 
定量的な評価をよしとする世の中で
サンプルAとして今日も生きていく。
どこで何に使われるのか、よくわからないサンプルとして。