昨晩、工藤美代子『日々是怪談』を読み終えた。
ノンフィクション畑の作家だけど、視えるけど鈍感という体質らしく、
いろいろ怪異な出来事を引き付けてしまう。
そんな日々を淡々と綴ったエッセイ。
姪が生まれた同じ日に亡くなった祖父から、
既に亡くなっていたはずの時間に産婦人科に電話がかかってきた、
遠くから聞こえるような声だった、とかそんなのはざら。
最後の話が松江を訪れる話でラフカディオ・ハーンにも触れることになる。
読み終えて数時間後、新日本風土記の再放送を見ようとしたら
テーマが松江。ラフカディオ・ハーンの怪談の朗読もあった。
ゾッとはしない。
こんな偶然もあるんだな、と思う。
引き寄せられる形で実現された偶然のようにも思う。
偶然というと、大学生の時に高校の同級生を見かけたことが何度かあった。
それぞれ別の人。
新宿駅の改札の外で待ち合わせしていたら、ふっと改札を抜けてきて目の前を通り過ぎたとか、
あ、と思うも一瞬のことでそれっきりとか。
中央線に乗っていてすぐ近くに見かけたけど、
声をかけようか迷っているうちにすぐ次の駅で向こうが下りたとか。
池袋駅の地下道を歩いていたらなぜか一人きりになって、
向こうから一人きりで来た若い男性がよく見たら同級生で、
でも俯いて声をかけにくい雰囲気だったからすれ違うだけで終わったとか。
不思議なことに、社会人になってから高校の同級生にばったり会うことがなくなった。
これもたまたまなのかもしれない。
あるいは年月が人を変えて気づかなくなったのかもしれない。
「高校の同級生」のことを考えることがなくなって遠い存在になったからかもしれない。
ただ単に何人かは大学卒業と共に故郷に帰るか別の地域に移って
ばったり出会う確率が下がったのかもしれない。
帰省して青森駅前の新町でばったりとか、
新青森の駅の新幹線のホームでばったりとか、そういうのもない。
人の話を聞いたり読んだりしていると、知人にばったりひょんなところで会ってばかりの人もいる。
そういう能力や資質というものがあるのだと思う。
それがいいことなのかどうかは、よくわからない。