久しぶりの太宰

次の週末、7日は自由が丘の青熊書店にて太宰治の読書会。
 
短編「十二月八日」を読むということで、
収録された新潮文庫の『ろまん燈籠』をこのところ読んでいた。
まとまって太宰治を読むなんて、何年ぶりだろう。
 
昭和10年代半ばから末にかけて。
日本が戦争に向かい、呑み込まれる時期の短編を集めている。
社会情勢が不穏な時期ではあるが、
逆に太宰自身は見合いをして結婚、家庭を持ち、三鷹の家に住んで
落ち着いて創作活動を行うという短い安定期にあった。
(「十二月八日」とは太平洋戦争の開戦日となる)
 
モデルとはなっても、私小説と捉える人は少ないと思う。
太宰治自身と思われる作家が出てきて、実際その名前が出てきて、
身の回りの人との手紙などのやりとり、日記の記載、
場合によっては読者の女性との手紙のやりとりが
作家の視点で、あるいは読者の女性の視点でなされる、という作品が多い。
この時期の代表作を集めた短編集は
お伽草子』などの優れた短編集にまとまっているから、
そこに選ばれなかった作品たちを集めたのだろう。
(それは文章の優劣ではなく、単に内容が他と合わないということと思われる)
 
久しぶりに読んでこんなことを考える。
太宰の中核にあるもののひとつは「恥」の感覚であろうか。
でもそれは恥そのものというよりは、恥について考えることが恥、みたいなところがある。
その周りをうろうろして、解決もなく、諦めもなく、という。
同じように「いやらしさ」の感覚。(もちろん、性的な意味ではなく)
人間の、その人の、嫌らしいことについて考えることが嫌らしい。
明朗にその感情を描くということはしない。
ただ、批評するだけ。その寸止め感が太宰の短編にある。
長編になるとその感情を一心に追及するところがある。
恥にまみれた人物、嫌らしさにまみれた人物。
それが『人間失格』であったり、『斜陽』に結実する。
 
もうひとつ。
太宰は普通の人間と特別な人間との間を行き来していた。
特別な人間は、ふたつある。
マイナスに振り切った人間とプラスに振り切った人間と。
自分は普通の人間であると書くとき、思うときには
プラスの人間への憧れや嫉妬があり、マイナスの人間への軽蔑がある。
自分がマイナスにある時は仏の人間への憧れや嫉妬がある。
プラスにいるときは普通やマイナスへの転落を常に気にしている。
そこのところの落ち着かなさが太宰という人なのだと思う。
往々にしてそういう人のマイナス、普通、プラスの感情は些細なことで反転する、
紙一重のものでしかない。それも自分ではわかっている。
分かっていてままならない。
というかどうこうする気もない。
ただその落ち着かなさを言葉にするだけ。
 
厄介な人だよなあ。
でもそれが読者にとっては魅力になる。
それもわかってるから、なおさら厄介。