「Step Across The Border」

この前の土曜の夜、「Step Across The Border」の DVD を見た。
90年発表。ごく大雑把に言ってミュージシャン、フレッド・フリスの
音楽的な交流/彷徨をテーマとしたドキュメンタリー映画ってことになるんだけど、
この作品を、特にそのキモを説明することはものすごく難しい。


『仏「カイユ・ド・シネマ」誌にて「映画史上最も重要な100作品」に選出されている』
と DVD の帯に書かれている。
このことからわかるように、そもそも傑出した映像作品として認められている。
なかなか映像として記録に残すという発想のなかった物事を
フィルムに残したという功績によるものなのかもしれない。


結局はフレッド・フリスについて語るのがいいのだろう。
様々なガイドブックを参照すると単純に、その影響力は大きい、とある。
僕もそう思う。確かに大きい。
しかしその存在は巨大な地下水脈のようなもの。
人によっては最大限のリスペクトを捧げるのだろうけど、
例えミュージシャンであっても知らないまま一生を終える人も多いはずだ。
「裏のロック史」という言葉があるとしたとき、
頭脳警察村八分からじゃがたらに至るような系譜を思い浮かべる人もいれば
Minor Threat , Fugazi に代表されるアメリカン・ハードコアを思い浮かべる人もいる。
僕の場合は、Henry Cow から派生するあらゆる音楽、
いくら書いても書ききれないほどのファミリー・トゥリーということになる。
そしてその中心人物たちの中でもさらにその中心人物がフレッド・フリスなわけだ。


そもそもこの Henry Cow を説明するのが難しい。
ケンブリッジの学生たちが集まって結成、
60年代末の政治の季節に影響され、共同生活を送りながら演奏活動を行った。
ジャンルとしてはカンタベリー系のプログレッシブ・ロック
なんていうふうにさらっと言えるんだろうけど
これは単なる1つの側面を表したものでしかない。
しかも「じゃあカンタベリー系って何よ?」って話になってまた大変なことになる。
説明しきれない。
で、大事なのは時代的に Henry Cow 近辺の出来事ではなく、
むしろ70年代後半から80年代にかけて、そして今に至るまでの
Henry Cow 解散後の音楽活動なわけですよ。


例えばその流れの中でいくつかの特異点を挙げてみる。


・Henry Cow + Slapp Happy の発展的解消の後に
 クリス・カトラー、ダグマー・クラウゼと3人で Art Bears を結成。
 この2人のことを話し出すとフレッド・フリス並みに大変なことに・・・。


・この Art Bears 解散後ニューヨークに渡ったフリスは
 その後プロデューサーとして一時代を築くビル・ラズウェル
 (彼自身のグループ、Material の2枚目はなぜかホイットニー・ヒューストン参加)
 フレッド・マーとともに、Massacre として活動を始める。
 フレッド・マーは後に Scritti Politti のメンバーとなり、
 80年代を代表する作品「Cupid & Psyche '85」を発表することになる。


・Massacre 後の Skelton Crew にはトム・コラとともに、ジーナ・パーキンスの名前が。
 7月頭の Live 8 の時にも書いたけど、このジーナ・パーキンスは
 ビョークのライブメンバーとして後に知られるようになる。


(などなど。キリがないのでこの辺りでやめます)


そしてこの「Step Across The Border」とは、
この地下水脈がふとした瞬間に地上に流れ出たときの光景を映し出したものと言える。
ニューヨーク、ロンドン、東京、大阪と「音楽を求めて」旅するフレッド・フリスが
その先々で出会う音と人、そしてそこから生まれる演奏をうたかたの夢のように綴っていく。
出てくるミュージシャンとしては
ジョン・ゾーンアート・リンゼイ、イヴァ・ビトヴァ、ティム・ホジキンソン、林映哲、
アフター・ディナーのハコなどなど。映像作家のジョナス・メカスも登場。
(ボーナス映像にはチャールズ・ヘイワードも出てくる)
これだけの伝説的なミュージシャンたちが普段着で現われてふらっと演奏しているのだから、
僕のような人間からすればこれは貴重な記録である。


取り立ててストーリーはなく、
3分の1が演奏シーン、3分の1が取り留めのない会話、3分の1がイメージ映像となる。
このイメージ映像がフリスの生み出す音楽と奇妙に符合していて、詩的な雰囲気が生まれる。
フレッド・フリスの音楽性をうまく捉えている。
80年代末の東京や大阪の日常生活の風景があちこちに出てくる。
フリスは屋台のおでん屋に入って日本酒を飲みつつ、自らの音楽について語る。
こんな台詞が印象に残っている。
「若い頃は音楽で世界を変えることができると思っていた。でも今は違う。
 どこかで演奏をしたときに、その場にいたたった1人の人でいいから、その心に届いてほしいと思う。
 そしてその人が僕のところに来て、よかったと言ってくれたら何よりも嬉しい」


見ていてすぐわかるのは、フレッド・フリスにとって
あらゆる音楽、という以前に音そのものが等価なのだということ。
リズムをなすもの、メロディーやハーモニーをなすもの。
そこに至ることのない、束の間現われては消えていく生活の断片としての音。
フレッド・フリスはとてもいい耳をしていて、
それら全てを聞き取って自らの音楽に昇華させていく。
演奏方法も無限のバリエーションが生まれる。
プリペアドギターの上に小皿を乗せて、その中にゴマを入れて弦をこするというのもあれば
バンド編成で普通にリフのある「ロック」なギターも弾く。
幼い子供がおもちゃのキーボードを触って音を出すのを熱心に眺め、
自作のオーケストラ作品の指揮を行い、
車を運転しながら、マレーネ・ディートリッヒが歌うのが似合いそうな
ノスタルジックなメロディーを口ずさむ。


ごく普通の市井の人間がたまたまギターやバイオリンが弾けただけ。
そんな地味な風情で世界の各地を彷徨い、どこにもない音楽を紡ぎ出す。
市場に出回るパッケージ化された「音楽」以外のあらゆる音楽を、彼はこの世に導き出す。
ロック/音楽に限らず、創造という行為とはいったいなんなのか?どういう「状況」なのか?
その(答えにならない)答えの1つを提示できていると思う。
「カイユ・ド・シネマ」が「映画史上最も重要な100作品」に選出したのも
その辺りがポイントだったのではないか。
単なる記録作品を超えて、確かに何かを語っている。
凡庸なドキュメンタリーは現在を捉えただけの現在のための作品となってしまい、
時の経過とともに風化していく。
しかし優れたドキュメンタリーならば
1つの時代を未来の世代に向けて定着させることが可能となり、時代の証言となる。
この作品はそれだけの価値があるように僕は思った。