観覧車

観覧車の前で立ち止まって、「乗ろうよ」と彼女は言った。
ここには何回も来たことがあったけど、観覧車に乗ったことはなかった。
他にこれと言って何もない。
真っ赤な観覧車。それが今、ゆっくりと回転している。


階段を上って、チケット売り場へ。
彼女が先に立って歩いて、上り詰めて、足取りの遅い僕を見下ろしている。
無言で。
僕も、何も言わない。


先客が何組かいて、しばらく待つ。
はしゃいでる若いカップルと、親子連れ。
子どもは三人兄弟で、家族全員が乗ると狭くなる。
パパとママと分かれて乗ろうってことになって、
白い風船を抱えた、一番小さな女の子がママと乗ることに決まる。
係員の若者が風船を預かることになって、女の子が泣きそうになる。
いやだ、と言ってるのが聞こえる。
「じゃあ、乗るのやめる?」
僕と彼女は隣り合って立って、何とはなしにそんな会話を眺めている。


その女の子が乗り込んで、次は僕らの番になる。
ゴンドラが開いて、彼女が先に中に入る。
向かい合って座る。
僕は外側に座ったから、彼女の背後に絡み合う中心のフレームが見えた。
その幾何学的な模様。僕は円と直線のことを考える。


観覧車がゆっくり、ゆっくりと、上昇していく。
「見て」と彼女が言う。
僕は身をよじって、その先を眺めようとする。
彼女が何を指差そうとしたのか分からない。
あの細身のビルだろうか。それとも、その向こうの巨大な看板だろうか。
僕はたった一言、「ああ」と呟いた。


青空。
地平線の果てまで、穏やかに、びっしりと建物で埋まっている。
僕らが住んでいる場所。生きている場所。その光景。
ガラスに光が反射して、目が眩む。


「何が見える?」と彼女が聞くから、「高いね」と僕は答える。


観覧車が上昇し続ける。
なんだかこのまま永遠に上り続けるんじゃないか、と僕は思う。
そしたら、どこに行けるんだろう?
僕は、どこに行きたいんだろう?
このまま、こうして、永遠に。
どこにたどり着くということもなく。
彼女と、二人で。二人きりで。
そこでは何が見える?
僕は、高いね、と答える。


観覧車が頂点に達する。
意外とあっさり、何の感慨もなく、何の前触れもなく。
のんびりと沈み始める。
今度は僕が、外側の視界になる。
街を、見下ろす。


「ねえ、ほら、見て」
何も考えず、無意識のうちに僕は指差していた。
白い風船が空に浮かんでいく。
バイトの係員がうっかり手を離してしまったらしい。
ゴンドラの外からは何も聞こえてこない。物音一つしない。
あの小さな女の子は、気付いてないのかもしれない。
教えてあげたほうがいいだろう。でも、どうやって?
いや、教えてあげたくない。
余りにもかわいそうで、僕は関わりたくない。


彼女もまた、「かわいそう」と言う。
風に吹かれて、風船は観覧車とは別の方角に漂っていく。
どんどん小さくなる。
身をよじって、「あ、あ、」と小声で叫んでいた彼女は
体が辛くなったのか、僕の横に座った。
「消えちゃったね」


二人だけの小さな、小さな空間に、彼女の匂いがした。
僕はこの場所が、彼女の匂いで満たされていることに気付いた。
風景と彼女と。
ここにはもう、他に何も残されていない。
観覧車が、下り続ける。


泣きじゃくる女の子。
係員と父親が大声でやりあっている。
背を向けて歩き出す。
早くここから出て行きたくて、階段を駆け下りる。
地面に着いて、また歩き出す。振り払うように、早足で。
そんな僕のすぐ横を彼女もまた、歩く。
無言で。コートのポケットに、両手を突っ込んで。
立ち止まって振り返ると、青空の向こうに真っ赤な観覧車が見える。
彼女はそのまま、歩き続けた。


なんとはなしに、駅に到着する。
僕は地下鉄で、彼女は電車だ。
券売機の前で僕は「帰ろうか」と言う。
それぞれの改札に向かって、歩きだす。
「じゃあね」と彼女が言って、僕もまた、「じゃあ」と言った。
僕は階段を下りていく。
地下から駆け上がってくる子供たちが、僕の脇をすり抜けていく。