「Patti Smith : Dream of Life」

9/23(水)シルバーウィークの5連休最終日、渋谷へ。
渋谷シアターNにパティ・スミスのドキュメンタリー「Dream of Life」を見に行く。
この日はその後、ライズXで「ライアン・ラーキン 路上に咲いたアニメーション」と映画をハシゴ。
どちらも入場料が1,000円だった。映画の日じゃないのに。
理由はともあれ、得した。


1994年、夫フレッド・スミス(MC5のギタリストだった)と弟トッド、
最愛の2人を1ヶ月の間に立て続けに亡くしたばかりの翌年1995年から、足掛け10年以上に渡って撮影。
ステージの演奏とバックステージの模様。
あちこち世界を旅する日々と、自分の部屋にて懐かしいあれこれを手に取る場面と。
特にはっきりした構成はなく、まるで夢を見ているかのようにエピソードが始まっては次につながっていく。
だけどまあだいたいのところ、生い立ちを時系列的に辿っている。
でも、ある程度パティ・スミスに詳しい人でないと分からないかな。
60年代末、ロバート・メイプルソープに出会ってからのチェルシー・ホテルの日々。
1975年、「Horses」でデビュー。
1980年、フレッド・スミスと結婚。息子と娘、2人の子供をもうける。2人ともミュージシャンとなる。
1980年代後半となって、ロバート・メイプルソープの死、フレッド・スミスの死。
その間、サム・シェパードとギターを弾いたり、レッチリのフリーと××について語ったり、
ウィリアム・ブレイクアルチュール・ランボーの墓を訪れたり、京都やイスラエルを訪問したり。
とりとめもなく現在の出来事が挟まっていく。


映像はなかなかかっこいいけど、
音楽映画、ドキュメンタリーとして特筆すべきものは特にない。
でも、パティ・スミスの詩の朗読、その言葉の力のすさまじさは十分に体感できる。
ステージ上で披露されたジョージ・W・ブッシュ批判の詩にこめられた憎悪は
呪詛と呼ぶに相応しかった。
なんかこう書くと NY パンクシーン出身ってこともあって
反体制派の怒ってる人と思う人もいるかもしれないけど、そういうことではなくて、
アートという手段を用いて世に自らを発しているならば、
その社会的責任を果たすべきということなのだと思う。
反体制派とかそんなの無縁で、普段のパティ・スミス
ごく普通に生きる親であり、娘であり、妻であり、アーティストだった。


プログラムに、「ドリーム・オブ・ライフによせて」というタイトルで町田康が文章を寄せていた。
気になることを書いていたので、引用します。
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 他に対して本気でなにかを言うということは非常に難しいことで、
なぜなら他に対して本気でなにか言うとそこに熱が生じ、摩擦が生
じ、軋轢が生じて、双方がこすれ削れてしまうからである。
 だから、通常の人間関係において、他に対して本気で何事かを言
うことはほとんどない。
 しかし、本気というのは人のなかに常にあり、それをなんらかの
形で表現しないと、身体のなかで本気が腐って人を蝕む。
 そこで考え出されたのが芸事である。人々は芸事を自ら習い、ま
た、芸事の芸を鑑賞し、その芸に自分の身体のなかの本気のような
ものをみて安心する。本気を解消する。


(中略)


でもそれってどうなんだろう。しょせんは贋物、借り物じゃねぇの?


(後略)
――――――――――――――――――――――――――――――


そう、そんな芸事に堕すことなく、世界というものと常に対峙し続け、
パティ・スミスは「その結果の自らが削れることを肯定的にうけとめて」いるという。


他人のことをが気になって気を使っているうちは表現でもアートでもない。
己と世界、どう向かい合うか。ただそれだけがあるのみ。


今思うと、INUの「メシ喰うな」の歌詞も
「余計なことしてる暇なんてねぇだろ」って言ってるように思う。
正にこのことこそが、パンクの基本理念なのだった。

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フジロックに毎年のように出ていた時期と
僕が3年連続泊まりで見に行っていた時期と重なり合っていたのに、
残念ながら一度も生で見たことがない。
オフィシャルなステージでは物足りなく、道端でも演奏していたというのに。


http://www.pattismith-movie.com/