「タイトル未定」(4.回想)

あれは私が小学校に入ったばかりの頃でした。
ママはある人のことを愛していました。
確かなことは言えませんが、ええ、そうだったと思います。
当時あの人は子供たちを連れてよく私たちの住んでいたマンションに来ていました。
子育て仲間とでも言うのでしょう。
保育所が一緒だったということもあってお互いの家を行き来して遊んだのですが
その男の子が、今となっては何て名前だったのかさっぱり思い出せません。
小学校も学年が進むうちに廊下で会っても知らないフリとなってそれっきりです。
そういうものじゃないですか?


あの日は、・・・夏の始まりだったような。
いつもの夜のようにあの人が来てパパとお酒を飲んで、
私たちは隣のリビングで遊んでいました。
お絵かきをしているうちに駆け回っていたり。
ママはエプロンをして時々そんな私たちの様子を見に来ました。
何か温かく湯気の立った甘いものを皿に盛って
私たちの部屋に運んできたことを覚えています。
そしてママもまたお酒を飲み始めたのが引き戸の隙間から見えました。


何かのはずみで私は子供部屋に戻って、それからキッチンへと入ろうとしました。
スリッパを履くことが嫌いだった私は足音を立てずにそっと近付いていきます。
ママを驚かせようとしたかったのかもしれません。
トイレの方からは酔っ払ったパパの独り言が聞こえてきました。
そのときふと見上げると、奥のダイニングの壁に寄りかかって
ママとあの人がキスをしているのが見えました。
チュッと挨拶するような遊びのキスではなくて、
2人の大人が、男と女が絡み合ってするような。
「見てはいけないものを見てしまった」そんなふうには思いませんでした。
ママはパパ以外の人とはキスしてはいけないし
パパはママ以外の人とはキスしてはいけない。
そんなタブーめいたことを知るのはもっとあとのことです。
そのとき感じたのはただ単に「じゃまをしてはいけない」ということでした。
子供には知りようのない、触り合って何かを互いに確かめ合う行為…
パパがトイレから出てくる音が聞こえて、私はそっと子供部屋に引き返しました。
上機嫌のパパとすれ違い、その後すぐパパとママが言い合う声が聞こえてきました。
いつものことだなと思って、私はリビングに戻りました。


甘えるような、陶酔の表情。身も心も委ねる。
パパとママがあんなふうにキスするのは最後まで見たことがありませんでした。
私自身にもないことでした。
大人になった今、私も1人の女として生きて、
男の人を好きになって、愛したつもりになっても、ああ、あそこまで。
汚らわしく、蕩けるような。
喜びに打ち震えて。


その後何があったのかは分かりません。
ある日を境にあの人は私たちの家を訪れることはなくなって、
そのことに気付いたときになぜか寂しく思いました。
話題に出ることも一切なく、
物事の最初から私たちに何の関わりもなかったかのように。


そこから先、ママもパパも私たちもそれまで通りの日々が続いて、
いつのまにか長い年月が過ぎていました。
私たちも大人になり、結婚し、家庭を持つようになりました。
そしてこの春にはパパが亡くなって…
今、1人きりで暮らすママは
ああ、あの日のことを思い出すことはあるのでしょうか。
そんなことを娘の私は、いつも考えるのです。