ルールとメッセージ

以前、物語の読者が物語に求めるものは
魅力的な「世界観」(ワールドモデル)とその中を生きる「キャラクター」に尽きるんじゃないか、
一方で「ストーリー」は奇抜なものよりも馴染みのある類型に沿ったほうが落ち着く、
ということを書いた。
世界観には作品全体として覆うもの(ナレーターや作者の視点の世界観)と、
個々のキャラクターの世界観とがあるということも書いた。
 
言ってみればルールですよね。許可と禁止で考えるとわかりやすい。
そこでは一般的に人というものは、あるいは主人公その人は、
何を求めてはいけないのか。何を求めることを許されているか。
そしてそのルールに対してどう抗うのか。
そこにこそ無言の「メッセージ」が込められているのではないか。
どの映画であれ、高倉健演じる主人公を思い浮かべるとわかりやすいと思う。
 
物語にどういうメッセージを込めるか、必要なのか、ということが議論となる。
自分にはこの社会に対して訴えかけたいことはないのだと。
しかしメッセージというのは社会的なもの、
例えば極端な階級構造の是正といったものに限らない。
主要な登場人物たちが何を求めてぶつかり合うのか、
誰が最終的に欲しいものを得て、誰が失うのか。
その全体的な構図を否定的に捉えるのか肯定的に捉えるのか。
それこそがメッセージとなる。
つまるところ、メッセージは「セリフ」ではない。
(もちろん多くの場合は主張な登場人物の心情の吐露といった形で表されるが)
 
しかしこれが単なる個人間の利害関係の一致に過ぎなくなったら薄っぺらくなるので、
社会的な背景との関係性においてどうなのか、その物語世界においてどうなのか、
というところが必要とされる。
 
佐伯一麦私小説『還れぬ家』を読んでそんなことを考えた。
高校卒業に前後して家を飛び出した主人公は
電気工事の職に就きながらの最初の結婚が破綻、今は再婚している。
これまで関りを極力避けてきたが、父が認知症を患い、
折り合いの悪かった母がしきりに頼るようになってきた。
その日々が淡々と綴られる。
それがかなり進んだところで突然、東日本大震災が起きて生活は一変、
全てがなぎ倒されるようでいて、主人公の語りは父の最期を看取る日々を重ねていく。
 
新潮文庫の解説でロバート・キャンベルも書いているが、
佐伯一麦は「帰る」という言葉を使わない。「生家を訪れる」といった表現となる。
このたったひとつのルール(いや、実際には他にも無数にあるんだけど)の
自分にとっての意味、社会にとっての意味をとことん掘り下げていくことで、
そしてそれが一切ぶれないことで、長大にしてゆるぎない物語を生む。
そういうことなんだなと。
 
自分には○○ができない、あの人はしたくても○○ができないということが、
物語を生むきっかけになるということ。