『「都築響一の眼」vol.4/portraits 見出された工藤正市』

月曜、21日の毎日新聞夕刊を見ていたら
工藤正市という青森市出身のカメラマンのことが紹介されていた。
若い頃は写真雑誌への投稿で評価されたが、後に仕事に専念。
勤務先の新聞社、東奥日報では写真部長を務めたという。
2014年、84歳で亡くなる。
近年、家族が押し入れの中に眠っていた大量のネガフィルムを見つける。
インスタにその写真を一枚ずつアップしていくと国外からもフォロワーが。
そういう方がいたなんて、全く知らなかった。
再評価ではなく、再発見されたほぼ無名だった写真家。
 
新聞には橋の上を肩を組んで渡る少女二人の写真が
大きく引き伸ばして掲載されていて
なんとも美しく懐かしい情景だった。
鉄製のとても立派な橋で、青森市のどこなのだろう? と気になった。
若い頃の通勤風景だったのでは、と新聞では推測していた。
 
都築響一の連続企画の一環として
馬喰横山のギャラリーで写真展が開催されているという。
『「都築響一の眼」vol.4/portraits 見出された工藤正市』
https://www.tokyoartbeat.com/event/2021/4D58

26日、土曜までとあったので
昨日午後休を取って見に行った。
神保町の DiskUnion で CD を売る。
査定の間、「やきとり屋神保町」で久しぶりに親子丼を食べた。
ギャラリーがオープンするのは15時からで、
1時間以上時間があった。
曇りでさほど厚くはなかったので神保町から歩いてみることにした。
靖国通りを東へ、小川町、線路をくぐって岩本町。
この辺りまでは神保町で働いていた頃、昼を食べに遠征していた。
その先は初めて。
問屋街となるのか。色褪せた昭和がどことなく残っている。
 
この辺りだろうか。
目の前に都立一橋高校とあって、
卓球や軟式テニスなどいろんなスポーツが
全国大会優勝や優秀な成績で垂れ幕がかかっていた。
清洲橋通りに入る。
ここは繊維・織物・縫製関係の問屋街のようで
あちこちにタオルやユニフォームと書かれた看板が。
路地に著とは言ってみると
小さな問屋の棚いっぱいに積まれた在庫や
せっせと手仕事を続けるおばちゃん。
その中で「エトワール海渡」の看板が林立しているのが目立つ。
ショールームや倉庫など一大勢力を築いていた。
同じような小さな問屋から初めて、
大きく成長させた経営者がいたんだろうな。
他、昔ながらの蕎麦屋がちらほらとある近くに
こじんまりとした新しいギャラリーがあったり。
 
写真展を開催していたギャラリーも雑居ビルの一室。
この界隈はエリア・リノベーションの本を読んだときに事例として出てきた。
古いビルを改装して若者にカフェや雑貨屋をオープンさせるのだという。
あるいは事務所やワーキングスペースに利用するか。
ここもそうだった。
4階に上がって廊下の突き当りの先に非常階段が。
外に出ることができて見てみるとマンションの間に挟まれて
昔ながらの問屋の建物が肩を寄せ合っていた。
 
15時のオープン過ぎにギャラリーの中に入る。
8畳ぐらいの広さ。既に何人か先客がいる。検温する。
写真は20枚ほど展示されていたか。
1950年から1962年にかけての青森の風景。
路地裏のバラックに人が集まる。
バスの中で乳を含ませている女性。
女の子たちは皆おかっぱ。
この頃はまだ普通に馬や牛が通りを歩いていたのだな。
恐らく、青森駅前から古川にかけてではないか。
今の東奥日報の本社ビルのある辺り。
 
青森の冬の厳しさを売り物にするような写真はなく、
市井の人々の何気ない日常の風景ばかりだった。
何気ない笑顔。何気ない明るさ、力強さ。
この風景ひとつひとつに尊いものを感じた。
青森市に育った者として、
こんな素晴らしい写真を残してくれてありがとうと思った。
 
ギャラリーには発見されたネガフィルムの一部や、
当時投稿した写真雑誌も展示されていた。
 
みすず書房から9月に写真集が刊行されるのだという。
神保町の書店「書泉」で事前オーダーできたので、
家に帰ってからさっそく予約した。
届くのが楽しみ。
青森の母にも一冊送ろうかと思う。