『苦海浄土』を読み返す

縁あって、石牟礼道子苦海浄土』を再読。
この年になると積読が増えるばかりで、
本を読み返すことはなかなかないもので。
機会が与えられたことをありがたく思います。
 
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水俣病は男女老人子供、分け隔てなく水俣の貧しき者たちの間で発症した。
1954年より原因不明の疾患として報告がなされ、
1956年、「水俣病」として公式に確認される。
 
日本窒素肥料(現・チッソ水俣工場の排水が
沿岸部の貧しき者たちの食べる魚介類を汚染したのが原因と目されたが、
チッソは認めず。
1959年、生活の手段をなくした漁師たちを中心とした
大規模なデモがチッソに対してなされた。
チッソは認定された患者に対して
わずかばかりの「見舞金」を押し付けることで終わらせようとした。
 
石牟礼道子もその一人として、1968年、「水俣病対策市民会議」が発足。
この年、熊本大学医学部の研究を受け、厚生省は水俣病の原因物質を
チッソ水俣工場の廃液に含まれたメチル水銀化合物であるとし、
初めて公害認定を行った。
最初の患者発見から14年が経過していた。
政府の対応はあまりにも遅かった。
その間、1965年には新潟市第二水俣病の報告がなされた。
 
『舟の上はほんによかった。
 イカ奴(め)は素っ気のうて、揚げるとすぐにぷうぷう墨ふきかけよるば
ってん、あのタコ奴はほんにもぞかとばい。
 
(中略)
 
 そがんして大事にしとった舟を、うちが奇病になってから売ってしもうた。
うちゃ、それがなんよりきつかよ。
 うちは海に行こうごたると。
 我が食う口を養えんとは、自分の手と足とで、我が口は養えと教えてくれ
らいた祖(おや)さあに申し訳のなか。』
 
妻の友人に水俣出身の方がいて、10年ほど前に訪れたことがある。
 
市立の水俣病資料館にも行った。
無数のモノクロの写真が展示されていた。
家具と呼べるものが何もないボロ屋で、桶の中で麻痺した体を洗われ、
何も見ていない眼でこちらを見ている子供たち。
旗を打ち立てデモに向かう漁民たち。
 
建物の外に出ると
よく晴れた日のキラキラと輝く美しい、穏やかな海。
多くのことを、長い年月が洗い流したかのようだった。
 
でも、終わってはいない。
受付のところに、杖を突いた、年配と呼ぶにはまだ若い女性が
フラフラと横に揺れる不安定な歩き方で現れた。
常連さんなのだろう。
受付の方と笑顔で世間話をしていたが、
その話しぶりもつっかえつっかえ。
「今日は晴れていて歩くのも気持ちがいい」
ただそれだけのひとつのセンテンスを話し終えるにも
相当な時間がかかった。
 
どこを切り取っても切実な物語である。
だからと言ってこれは告発の書ではない。
 
石牟礼道子の本書は多くの肉声の断片により成り立っているが、
聞き書きではないし、ルポルタージュでもない。
むしろ私小説であるという。
 
患者たちの元へ何度も足しげく通うことで発言を拾ったのではなく、
患者たちと同じ世界を生きて
水俣の海のかつての豊穣を知っているからこそ、
幻として聞こえてきた心の声だった。
 
石牟礼道子チッソを、日本政府を告発したかったのではなかった。
二度と治らぬ病に侵されても、水俣の海で生き続ける漁師たちの
魂の豊かさを描きたかった。
目の前の事件は取り返しのつかない痛ましいものだった。
現に何千人、何万人という被害者がいる。
しかし、水俣の海と人の関係はただその一点で
すべてを否定するものではない。
何万年にも及ぶ水俣の海と人類との素朴にして豊かな関係を歌い上げたい、
その深く優しい眼差しがある。