「許されざる者」

新宿の高島屋12階の映画館テアトルタイムズスクエア
レイトショーにてクリント・イーストウッド特集をやっている。
週変わりで90年代の代表作を上映。
今週は名作との誉れ高い「許されざる者」だったので
ミスティック・リバー」で今更ながら
イーストウッドすげーな」と思った僕としては
こりゃ是非とも行かなくてはと思う。


西部劇。
「最後の西部劇」と称されている。
イーストウッドの、ではなくアメリカ映画として最後の。
これ以後作られなくなったわけではないだろうし今後も誰かが作るのだろうけど、
かつての黄金時代を生き抜いた、
西部劇の「志」を肌で知っている人間が作るという意味では
これは確かにアメリカ映画史最後の西部劇なのかもしれない。
ジャンルとしてフェードアウトしていった後に
後世の研究者が史実を遡っていく中で
この作品が最後であると認定されたという類のものではなく、
明確な意思を持って、1つの楔として、ある種の到達点として、作成された映画。


ストーリーはと言えば、
とある小さな町の売春宿で売春婦がカウボーイ2人に顔を傷つけられるという事件が発生、
売春婦たちは2人の首に懸賞金をかけるが、
町を牛耳る保安官(ジーン・ハックマン)は
無法者・賞金稼ぎが町を荒らすのを快く思っていない。
その昔は冷酷無比な殺人者として名を馳せた初老の男(クリント・イーストウッド)は
殺し屋家業からは身を引き、荒野の片隅で
先立たれた妻が残した2人の幼い子供たちと細々と暮らしていた。
ふらりと現れた若者にそそのかされ、子供たちの養育費のためにと
かつての仲間と3人で賞金を求め町へと向かうのであるが、
10年のブランクの間に男は銃を撃つことはおろか馬に乗ることさえ覚束なくなっていた。
こんなところから始まる。
最後は復讐劇となり、主人公が敵を射ちまくるお約束のシーンとなる。


90年代初めに作られただけあって
50年代に作られたような西部劇とは物語の質感が異なる。
善悪の境目というものがきれいに分割できるものではなく、
売春婦を人間らしく扱えと主人公が要求するセリフがあったり、
ストーリー/背景の構造の大本にあるものが昔とは全然違う。
映画史的にはアメリカンニューシネマを通過し、
アメリカ史的にはベトナム戦争を通過、
そして空白の80年代をやり過ごして、というのが大きく影響しているのだろう。
見た目こそ西部劇であり舞台は正にそこなのであるが、
結局は90年代の目を通して描かれた人間のドラマということになる。


主人公クリント・イーストウッド
そのかつての仲間モーガン・フリーマンもいいのであるが、
ジーン・ハックマン扮する町の保安官が出色の出来。
「善も悪も関係ねえ俺様がルールだ」と言わんばかりの
強烈な存在感を発する法の執行者を演じて
代表作「フレンチ・コネクション」を彷彿とさせる。
町に現れた賞金稼ぎイングリッシュ・ボブに殴る蹴るの暴行を働くシーン、
その夜にお供の物書きに決闘の何たるかを実演するシーン、
手に汗握る場面が多かった。


馬が川を渡るときのキラキラとした水しぶき、
病に倒れて何日も静止をさまよっていた主人公が回復して眺めた外の風景の広がり、
そして最初と最後にスクリーンに映し出される
荒野にポツンと立つ木と小屋の夕暮のシルエット、
情感たっぷりの映像が西部劇の世界へと何の違和感もなく現代の観客を誘う。
雨の中での撮影や光量に乏しい薄暗い酒場や夜の町並みで撮影されたショットなど
技術的にも巧みだと言わざるを得ない。
この辺りの撮影・照明技術、ひいてはイーストウッドの演出技術が
ミスティック・リバー」で集大成として花開いたんだろうな。


クリント・イーストウッドはこの「許されざる者」で92年度の
アカデミー作品賞と監督賞を受賞したのであるが、
それまでの39年間のキャリアで
アカデミー賞にノミネートされたのはなんとこれが初めてだったのだそうだ。
今でこそ名優・名監督として誰もが認めるイーストウッドであるが、
60年代は「荒野の用心棒」のようなマカロニウエスタン
70年代は「ダーティーハリー」シリーズと
ダーティーアンチヒーローばかりを演じて
アメリカ映画の裏街道ばかりを歩んできた人なんだよな。


それにしても西部劇って面白いねえ。
もっと見たくなってきた。
学生時代は大学院のゼミの課題として
ジョン・フォード監督作を一まとめにしてビデオで借りてきて
その面白さがちっともわからなかったのであるが、
今でならそのよさがわかるかもしれない。
(当時は「駅馬車」すらピンと来なかった)
「荒野の七人」も「真昼の決闘」も「シェーン」もまだ見たことないんだよなあ。
それにマカロニウエスタン
KILL BILL vol.2」を見るにあたっては
マカロニウエスタンの必要最小限を押さえておくことは必須かも。


大学院といえばアメリカ文化史の授業を取ったことがあって、
「神話としての西部劇」というテーマの教材を読んだことがあった。
神話、とある時代精神の象徴となるだけあって
西部劇で描かれる時代ってのアメリカの歴史の中で
それこそ100年は続いているのだとそれまで僕は思っていたのであるが、
実際には19世紀後半のたった20年、
40年代後半のゴールドラッシュで西部に人が集まりだしてから
20世紀初頭、鉄道網が張り巡らされ西部海岸都市の人口が増えだすまでの間の
70年から90年ごろまでのわずかな期間がカウボーイ・ガンマンの全盛期だったようだ。
(年代は微妙に間違っているかもしれない)