壁の中には何かが潜んでいる

壁の中には何かが潜んでいる。住み着いている。
僕は子供の頃そう思っていた。
今でも、そう思っている。


得体の知れないものにおびえ、布団の中で眠れなくなっていた夜。
どこからか聞こえてくる小さな物音。
外から漏れてくる淡い明かりが歪んだ影を作り出す。
僕の眠っている角度ならばそれはチラチラと動いているように見える。
何かがうごめいているように見える。
それはずっと静止しているようもあり、
常にその形を絶えず変え続けているようでもある。
目を閉じてもそれがそこに、すぐそこにいるのを感じる。
母親か兄か、誰でもいい、人を呼びたくなる。
でも声が出てこない。そもそも口がこわばって開かない。


その時僕は直感的に理解した。
やつらはどこからともなく現われ、どこからともなく消えていく。
もっと正確に言うとやつらは壁の奥から現われ、壁の中へと消えていく。
壁全体が僕を見つめながら包み込み、呼吸している。
体の小さな僕は布団の中に深く深くもぐりこんで
耳を塞ぐようにしてうずくまって夜になるのを待った。


大人になってもその感覚が続いている。
というか最近になって心の奥底から甦ってきた。
思春期が訪れ、進学のために上京して、働き始めて、
そんな10何年間の間はずっと忘れていた。
なのにある朝ふとしたはずみに、思い出してしまった。


それからはいつどこにいても見えるようになった。感じるようになった。
あの壁には「いる」から気持ち悪い、あの壁には「いない」から落ち着く。
亡霊というのとは違う。どちらかと言えば生き物なのだと思う。
別の次元からやってきて、通り過ぎていく生き物。
様々な大きさの、様々なヴァイヴ
(振動や呼吸や歩調などその様々な性質を表すもの)を持った生き物たち。
1週間いっぱい僕のことを見つめ続け、
僕が側を通る壁という壁を伝っていったやつもいれば
都庁の展望台に上ったとき、ビルの壁いっぱいに広がって
僕にその存在を感じさせたやつもいる。


そう、僕はその時、やつらが東京中を覆い尽くしてうごめいているのを見た。
微生物がネトネトと盲目的にその生命をとてつもないスピードで消費していく。
生まれては死んでいく。空中に昇華される。
眩暈を感じた僕が目を閉じて
その手をふらっと手近のものにもたせかけると
その固い金属的な触覚の向こうで何かが伝ってくるのを感じた。
吸い付くように近付いてくる。
そしてそれは僕の皮膚をこじ開けて僕の中に入り込もうとした。
(しかしその試みはなぜかいつも失敗する。
いつの日かやつらがそれができるようになって僕の内側に入り込めるようになったとき、
僕はどうなってしまうのだろう?)


都会や都市というものを離れようと僕は思った。
山奥にこもってしばらくテントの中で暮らしていれば、
この毒気に侵された体も少しずつ浄化されるのではないか。
少なくともそこには「壁」というものはない。


真夜中、1人きりで眠るときに
身の回りのあらゆる物事を恐怖感に繋げていくような、そんな子供たちのことを僕は考える。
その多くの子供は成長すると共にそういう恐怖のことを振り捨てることに成功する。
知らず知らずのうちに。
だけどごく一握りの子供は僕のようにその恐怖心を一生背負って生きていくことになる。
かわいそうだ。だけどどうすることもできない。
僕はもう諦めてしまった。


僕はそいつらの声のない声を聞く。
囁きかけ、叫んでいる。
意味のない音の連なりを生み出し続ける。
僕はその声に答えないようにしている。
絶対に答えてはいけない。