暗闇というもの

とある人からメールをもらう。
バリ島に行ったときのことが書かれていて、
暗闇って必要なものな気がしました、とあった。


暗闇。


小さな頃は暗闇というものが確かに怖かった。
今でも余り気持ちのいいものとは言えない。


大人だろうと子供だろうと暗闇というものを本能的に怖がっている。
子供は敏感だから、暗闇に対して過剰に反応を示す。
日々身近に接するものとして、皮膚感覚で捉えているのではないか。
例えその場所が街灯や蛍光灯といった様々な灯りによって明るくなっていたとしても
夜になると常に暗闇というものの存在を感じていたように思う。
もっと正確に言うと、すぐそこに潜んでいるのを感じ取っていた。


大人たちがネオン街に消えていくのも、
あるいは人の集まる地域にはネオン街ができて一晩中にぎやかなのも、
暗闇を恐れているからか。
生物学的にも比喩的にも、人という生き物は光を求めるもののようである。


恐れるばかりではない。それと同時にもっと別なものも感じているのではないか。
大人になれば。
人が生まれきた場所は暗闇であって、死という形でまた戻っていく場所でもある。
そういうことに思い至った時、暗闇というものはまた別な意味合いを持ってくる。
暗闇と空白とが交差するようになる。
人によっては別の種類の恐怖感を抱くようになるし、人によっては何の恐怖感もなくなる。


人は暗闇というものに何か特別な意味を見出そうとする。
なのにそれを表す適切な言葉を持っていない。
ただ、得体のしれなさだけが残る。

    • -

話は変わる。


僕はその人への返事としてこういうことを書いた。
暗闇というのはただ単に視覚的なものではなく、
音や匂いによって様々な色付けのされるものではないかと。
(なのでバリの暗闇は行ったことのない僕にとっては
 なんだかエキゾチックで瑞々しいもののように感じられる)


その地域・その文化によって
暗闇というものは補完もされるし、
その効果を打ち消すために、あるいはその効果を利用して
独特な雰囲気を生み出すために、華やかに彩られることもある。
カーニヴァルは夜になるのを待って始められる。
一言で暗闇と言っても、そこには無数の在り方がある。


暗闇というものをたった1つの単純な恐怖心だけで捉えているならば、
その人の人生はつまらないものと言える。
暗闇というものにどれだけ芳醇なもの(豊潤なもの)を見出せるかで、
その文化の成熟度を計れるのではないか。

    • -

映画を見に行く。
暗闇を通して、僕らはスクリーンの向こうの光景を体験する。
その世界に入り込む。


僕らはそこに光の戯れを見る。音を感じ取る。


暗闇がなければ、僕らの生活はひどくつまらないものになってしまうだろう。