「ピンク・フラミンゴ」

昨晩、ジョン・ウォーターズ監督の「ピンク・フラミンゴ」を観た。
先月「ノーカット特別版」というのが発売されて、これは買っとかなきゃ!と慌てて探しに行った。
「そのうち買うか」って思ってるうちにあっという間に半年や1年経って、店頭から消えてしまう。
ポストカードのセットと折り畳んだポスターが付いている。
この手のスペシャル・エディションだと多い、
日本語でくどくどしく、評論家やアートな人たちが解説したブックレットはなし。潔くていい。
アメリカの裏文化遺産としての「ピンク・フラミンゴ」とか、いかにも書きそうなもんだけど。


映画好き、アングラ好きにはあれだけ有名な「ピンク・フラミンゴ」なのに
実は僕、これまで見たことがなかった。
特に意味はなく、すれ違ってきた。
「あちこちにモザイクが入っていて、見づらいよ」「いまいちで気分でないよ」
という意見をどっかで見て「そうか・・・」と思ったということもあり。
肝心なシーンとなると日本側で入れたモザイクが雲のようにフワフワと動き回って台無しになるのだとか。
今回入手したのは「ノーカット特別版」ってこともあって、ぼかしは最小限だった。


そんで見てみたわけですが。
2組の変態家族がどっちがお下劣か競い合うという内容から、
史上最高に下品、悪趣味な作品というカルト的な評価を受けてきたものの
今の21世紀の目からするとこれが最高にお下劣かというとそんなわけはない。
日本の深夜番組の尖った部分の方がよほど奇天烈な試みをしているのではないか?
確かに、元祖である「ピンク・フラミンゴ」にしか出てこないような強烈なシーンはいくつかある。
 ・スーパーで買った肉を股の間に挟んで、何食わぬ顔して歩き出すディバイン
 ・ディバインのパーティーのシーンで、音楽に合わせて肛門をパクパクさせる男
 ・ラストシーン、犬の××を食べて、口を開けて笑うディバイン


なんなんだろうね。
ピンク・フラミンゴ」は撮影技術の圧倒的なまでのチープさが
思いついて実行した低俗さを素のままで見せてるけど、
今の日本のテレビ番組は刺激をいかに高めるかという編集テクニックが追求されまくっているから、
コーティングされた強度から言ったら比べ物にならないってとこか。
内容・オリジナリティーではなく、刺激の強さで決まってしまう。
僕らは今、不幸な時代に生きてるのか。

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考えたこと。
何よりもまず、70年代の映画はやっぱ素晴らしいねと。
アメリカン・ニューシネマとは別の系譜として、
若者たちが低予算で作った、チープだけど溢れ出す衝動のままに作った
鮮烈な映画たちとでも言うべきか。
悪魔のいけにえ」とかさ。
特徴として、それらの作品では人があっさりと死んでしまう。
悪魔のいけにえ」はレザーフェイスがとにかくチェンソー持って殺しまくる映画だし、
ピンク・フラミンゴ」も気に食わない登場人物はあっさりとピストルやナイフで死んでいく。
人を殺すという行為、人を殺すという場面に感情的な重みが一切ない。


なんでアメリカの70年代にこういう映画があちこちで生まれたのか。
歴史の解釈が間違ってるのかもしれないけど、こんなことではないか。
60年代までは「モラルの時代」「絶対的な価値観の時代」だった。
それがひっくり返された。
先駆けとしてヒッピーの時代があって、1968年から69年にかけて。
世界各地で高まった革命運動とその終焉。
熱狂の渦の中で若者たちの共通意識を融合させることで検証された、
この世界に関する様々な仮説。導き出した結論。
何かがそこで崩れ落ちたのだと思う。
その1つに「僕らが盲目的に与えられ、信じてきたことは絶対ではない」というのがあって、
そこから先、価値観は相対的なものとなった。
誰もが信じるような「大きな物語」は成立しなくなった。それは幻想に過ぎなかった。
個々人がそれぞれの「小さな物語」を選び取るようになった。
そこではモラルというものもまた、価値観の1つに過ぎなくなった。
良くも悪くも足かせが外れて、
映画というジャンルを志す若者たちは自らが求めたいものを素直に求めるようになった。
そういうことなのだと思う。
(もちろん、70年代を待たずして好き勝手に映画を撮っている人はもちろん存在した。
 「ファスター・プッシーキャット キル!キル!」なんて1966年。
 だからラス・メイヤーは偉大だとされるのだ。
 大和屋竺の「荒野のダッチワイフ」は1967年。
 ピンク映画時代の若松孝二は、・・・と言い出すとキリがない。
 というか正直そんなに見ていない)


話が長くなりそうで、かつわけのわからないものになりそうなので、これ以上のことはやめておく。
なお、「悪魔のいけにえ」と違って「ピンク・フラミンゴ」は人が死ぬ瞬間そのものは描かない。
ディバインがピストルを構える、銃声 → 次のカットでは血を流し、うな垂れる死体 という具合。
これはたぶん、金がなくて特撮できないから、
ではなくてジョン・ウォーターズ自身に興味が無いからだと思う。
人の死に方、死に様はどうでもいい。
命なんて単純なものであって、この私が事細かに描くまでもない。
生きている人たちが何をするのか?興味があるのはあくまでそこ。死はその結果に過ぎない。
そういうスタンスを感じる。
そこに、ジョン・ウォーターズ特有のセクシーさがあるのだと思う。