「アメリカン・チャイルドフッド」

アニー・ディラード「アメリカン・チャイルドフッド」
http://www.amazon.co.jp/dp/4938165066/


一口に小説家と言ってもいろんな人がいる。


彼の、彼女の、その言葉は、いったい誰に対して向けられたものなのか。
彼や彼女自身のため?言葉そのもののため?
あなたや私たちのため?この世界のため?「名づけえぬもの」のため?
金や名声を求める自分のために。
明日の米や酒代にも困る生活のために。
ただ、今日という日を私という人間が生きていくために。


あるいは。


彼や、彼女が、その言葉を使って行う行為はどのように呼ぶべきか?
「綴る」がふさわしい人もいれば、「彫る」や「刻む」がしっくり来る人もいるだろう。
シンプルに、「書く」「話す」「語る」だっていいだろう。
「繋げる」や「選ぶ」「残す」かもしれない。


この2つの観点の掛け合わせで、
古今東西の作家がカテゴライズできるのではないか?
と最近考える。


では、アニー・ディレードはどこに分類される?

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小説家が言葉を使って書くという行為。
そこにどこまで自覚的になれるか。
「小説家なのだから自覚的なんじゃないの?」と誰しもが最初に思うはず。


アニー・ディラードを読むと、ほとんどの小説家は実はかなり、無頓着なのではないか?
自分のしていることを知らないままにのんべんだらりと本を出しているのではないか?
そんなふうに片付けてしまいたくなる。


観察すること。記憶すること。
その間で揺れ動く感情というものに対して、常に冷徹な姿勢のまま、接するということ。


僕が最初に書いたことと矛盾するが、
「書く」は「書く」でしかないし、それは何のためでもない。
しかしそこに徹することができるかどうか、どこまで持ち堪えられるかに、
その小説家の資質というものがはっきりと現れるのだろう。

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僕はこれまで、アニー・ディラードのことを知らなかった。
松岡校長の千夜千冊をザッピングしているうちに、たまたま出会った。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0717.html


amazon から取り寄せようとしたとき、
本当は取り上げられていた「本を書く」を買いたかったんだけど、
絶版で結構な値段がついていた。
アメリカン・チャイルドフッド」が比較的安かったので、
まずはこっちを読んでみた。


結局のところ、どの作品を入り口にしたところで当たりだったと思う。


物心ついた幼年時代から、蓮っ葉な女の子に育って女子高を卒業するまでの半生を描いた、自伝。
さまざまな出来事。さまざまな物、光景。
記憶と観察についての文章、というよりは
記憶する自分、観察する自分との関係について常に問いかけ続けるかのような文章。


最初の記憶の数々。
無数のきっかけと手がかりを元に
混濁していた「私」と「世界」とがはっきりと区別されるようになると、
私は私として引き返せなくなる。
何もかもが新鮮だったあの世界の中に戻ることはできない。
1人きりあらゆる物事を持て余し、反抗するようになる。
それを思春期と呼ぶならば、
諦めて、受け入れて、かつての、
「私」と「世界」とが一体化していた頃のことを全て忘れてしまった、
そんな日々を繰り返し生きることを人は「大人になる」と呼ぶ。


この人は、なんでこんな正確に記憶や感情というものをその手に掴んで、
的確な評価を下してしまえるのだろう?
そしてなんでこんな正確に、言葉に置き換えてしまえるのだろう?


2箇所、引用します。


p.25
「意識は子どもと合体する。それは、地面に舞い降りるアジサシが、
 砂に映った自分の広げた足の影に接するようなもの。
 爪先がぴったりと影の爪先に接するのと同じだ。
 アジサシはとまるために翼をたたむ。
 その影は砂の上に落ち、広がり、しまいに胸の中に消える。
 他の子どもと同じように、私も私自身のなかに完璧に潜り込んだ。
 それはちょうどプールに飛び込む人が、その影と合体するようなものだった。
 その指先は水の上の影の指先にぴったりつき、
 手が腕の中に滑り込んでゆく。
 飛び込む人はその影を完璧にまとい、足の指先でぴったりと封をし、
 プールから濡れた体を引き上げたときにそれを身につける。
 後は一生涯その影を着ているのだ」


p.301
「思い出せるかぎり、私は透明な人間だった。自意識も無く、学ぶこと、
 いろんなことをすることで一日の大部分を過ごしてきた子どもだった。
 いま、私は自分の道を踏み出した。
 私自身がもはや無視できない黒い塊だった。
 私はどうしたら自分を忘れることができるのか、思い出せなかった。
 私は自分のことを考えたくなかった。
 自分のことをあれこれと思いわずらわせたくなかった。
 いろいろ大変なことばかりだというのに、
 そのうえ一分一秒、自分とつきあうなんてごめんだった。
 でも、道をそれることなはあっても、避けることはできなかった。
 私は自分の道を塞いでいる岩そのものだった。
 私は自分自身の耳元で吠えている犬だった。
 決して鎮まらない吠え犬だった。


 そう、これが私の思春期だった。
 まわりの大人たちが、避けようもなく、希望もなく、
 立ったまま死んだのは、このためだったのかしら。
 もしかすると、彼らの中の自己が長いこと太陽をさえぎってきたので、
 世界は彼らのまわりでしぼんでしまったのかもしれない。
 そしてその避けようもない起動が、
 思春期という暗い自己中心的な年月をやっと通り過ぎたときは、
 もう取り返しがつかなくなっていたのかもしれない。
 彼らは萎えた世界に自分を合わせてしまったのだ」


僕はもう、大人になってしまった。
大人になって長い時間が経過した、経過してしまった。
読んでいて、「ああ、こういう感覚だったよなあ」と思う。
端的に言って、懐かしかった。
しかし、僕にはこんなふうに書くことはできない。
嫉妬すら覚える。
狂おしい気持ちになりながら、読んだ。


物事に対する冷徹な視線を持ってこそ、生まれながらの小説家なのだ。
僕には、それがない。


素晴らしい文学はいつだって、「現実」というものを鋭く突きつけてくる。


アメリカン・チャイルドフッド

アメリカン・チャイルドフッド