耳の日

3月3日はひな祭りであるけど、耳の日でもあって。
村上春樹の『羊をめぐる冒険』にて耳専門のモデルである女性が登場するのを思い出す。
 
視力っていうのは検査をして「0.3」とか「1.5」とか具体的な数値で表れるんだけど
なんで聴力はそうならないのか、というのを毎年の健康診断で思う。
電話ボックスのような個室に入ってヘッドホンをして、
ボタンがひとつあるだけのリモコンを渡され、
聞こえているあいだボタンを押してくださいと言われる。
ピーピーピー、ツーツーツーという音が少しずつ大きくなっては消えていく。
僕はボタンを押し続けて、あるときサッと無音になって離す。
これを左右で繰り返す。
これってどの周波数の音がどれだけの音量だと聞こえるかとなるので
一概にひとつの数字やレベルでは表しにくいのかもしれない。
 
普段はそんなこと意識しないが、
僕とあなたとでは聞こえている音が、音楽が違うのかもしれない。
その受ける印象が全然違うのかもしれない。
実際、モスキート音というものがある。
歳をとると周波数の高い音が聞こえにくくなって、若い人にだけ不快に感じる音。
 
耳のいい人がいる。
これもよく考えるといくつか種類があって、
小さな音を聞き逃さない人を言うこともあれば
複数の楽器が複雑なフレーズを重ねている中で
特定の楽器のメロディーを探り当てる人を言うこともある。
前者は純粋に身体的能力であって先天的だが、
後者は訓練やセンスによるもので後天的だったりする。
僕はどちらでもなく、ボサッと聞いていてその音はさほど鮮明ではないのではないか。
まあでもそれでいいのだと思う。ほどほどの健康。
 
聴力にあっても過敏な状態に置かれていて、
音が痛い、音が怖い、となって日常生活を営むのが困難、という人もいるのだろう。
それが聴覚的なものなのか、神経的・精神的なものなのかはケースバイケースか。
オリヴァー・サックスのエッセイのテーマにそういうのがありそう。
 
もし仮に僕が聴力を失ったならば絶対的な静けさの中にあって
最初のうちはそれが耐えられなくなり気が狂いそうになるだろう。
その時期を過ぎたあとではそれまでに聞いた音楽を、身近な人の声を、
頭の中で無限にループして追体験しようとするだろう。
しかしいつかその記憶も色あせて消えていく。
そんなことを思うとき、どんな音もどんな声も
その一つ一つがかけがえのないものなのだと気づかされる。