3月19日は語呂合わせでミュージック、音楽の日であるという。
タワレコの「No Music, No Life」ってやっぱすごい標語だなと思う。
朝晩の会社の行き帰りに毎日何かしらの音楽を聞いている。
あれだけ毎月たくさんCDを買っているのに買いつくすことがない。
日々聞いてみたい音楽がなにかしら出てきて、財布や貯金との相談となる。
小学生の時にベストテンやトップテンに興味を持って以来、30年以上になる。
アルバム単位でいえば2万枚以上聞いたことになるだろう。
曲単位でいえば、iTunesに取り込んだ曲を全部聞くとしたら確か1年以上かかる計算になっていた。
そんな僕でも Nurse With Wound『Spiral Insana』のように
「世の中にこんな音楽があったのか!?」と最近になって度肝を奪われた音楽はあるし、
The Beach Boys『Pet Sounds』は何度聞いても美しく、聞くたびに今も発見がある。
こういう楽器が隅で鳴ってるんだ、というよりも、こんなイメージも広がるんだ、というような。
音楽のない生活は考えられない。
音楽を奪われた生活は、希望を奪われた生活と言えるだろう。
文学もそうだが、生きる喜び、生きる悲しみを奪われるということ。
昨日は何をきっかけとしたのか、
チャクラの80年代前半のライヴ音源が1月に発売されたというのを見かけて聞いてみたくなる。
中心人物は後に Killing Time を結成して、そちらの方は何枚か聞いたことがある。
シュールな和製プログレとでもいうか。
俄然興味を持つ。その筋では有名だけど、名前しか知らなかった。
そんな盤dのが国内・海外にまだたくさんある。
今日は元 Red House painters の Mark Kozelek がカバー集を出していると知って、欲しくなった。
「I’m Not In Love」や「Amanda」を謳っているようだ。Amazon でオーダーしたくなるのを我慢する。
まだまだ新しい出会いがある。
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音の連なりはどこを境目として音楽となるのだろう、ということを考える。
例えば、ノイズミュージックというジャンルがある。
Einsturzende Neubauten / Esplendor Geometrico / Whitehouse / Soviet : France など。
例えば Einsturzende Neubauten は工事現場から拾ってきた鉄屑を「楽器」として奏でる。
制御不能な音がまき散らされ、特に活動の初期において、そこには乱打されるパーカッションの原始的な快楽があった。
しかしそこにも程度の差はあれ、一定のパターンで繰り返されるリズムとメロディがあった。
メルツバウになるともっと無調となるだろうか。抽象的だけど、脅迫的な姿勢を持つ音。轟音。
しかしメルツバウという音楽。 「美は乱調に有り」を体現する。
どこからがノイズでどこからが音楽か、というよりも
ノイズはノイズミュージックと人が呼んだ時に、ノイズミュージックとなるのだと思う。
つまり、音の連なりを作為的に生み出し、意味を見出した時にそれは音楽と呼ばれる。
例えば、ある和室に風鈴が3つ以前から吊り下げられていて
そこに風がそよいだ時にたまたまドレミドレミと鳴ったら、それ自体は、その瞬間は音楽ではないんじゃないか。
しかしそれを面白いと感じた人が録音してCDとして売り出したり、
Youtube にアップしたらそれは音楽の裾野に入るんじゃないか。
風鈴の位置を変えて音響的な効果を狙ったとか、
音程を産み出すために異なる形の風鈴を追加した、
風を意図的に送るようにした、となるとより音楽としての度合いが高まるだろう。
商品として販売されている音楽、再生・複製可能な音楽はほんの一握り。
その時そこにしか生まれえない美しい音楽の多くが、
人類の数千年の歴史の間に消えてしまった。二度と取り戻すことはできない。
しかしそれゆえに音楽というものは無限の可能性を持つものなのだ、とも思う。