「自閉症は津軽弁を話さない」

興味深い記事を教えてもらった。
『「自閉症津軽弁を話さない」この謎に挑んだ心理学者が痛感したこと』
 
弘前大学で働く心理学者がある日、妻にこんなことを言われた。
自閉症の子どもって津軽弁しゃべんねっきゃ(話さないよねぇ)」
彼は最初、それは自閉症の子供特有の話し方であって方言を話せないではないのだ
と考えていたが、全国のいくつかの地域で調査すると確かに
自閉症の人々の方言使用が少ない」という印象を抱いている人が多かった。
自閉症を専門とする研究者から様々な推測がなされるが、彼は腑に落ちない。
同じ弘前大学の方言学の先生に教えを乞う。曰く
「方言主流社会では方言を使うのは心理的距離の近さを表します。
 いわば、共通語圏でのタメ語と丁寧語のような関係が、方言と共通語の間にあります。」と。
心理的距離の理解が難しい自閉症の人は方言を使えない、ということになる。
 
しかしこれだけでは答えにならない。
彼は方言を話す地域の子供は、身近な方言とテレビ・DVDの共通語のふたつの言語に晒されている
という状況に着目する。
自閉症の子供は家族の話す方言は真似しないが、
テレビ・DVDの共通語は真似するというケースがあるという。
そこでひとつの結論に至る。
周囲の人々との時々刻々と変わる状況・関係性の中で習得しなければいけない身近な言葉よりも
何度も再生可能なDVDなどのメディアの言葉の方がパターンとして習得しやすいのではないか。
実際、ある子どもは記憶のストックの中からパターンを引き出すようにして話していた、
繰り返すうちにアレンジして日常会話がぎこちなくも飼わせるようになった、という事例があった。
 
なるほどなあ。
自閉症津軽弁を話さない」
なんかそれ、よくわかるなあと思った。
 
僕も小さい頃は自閉症ではないにしてもかなり引っ込み思案な子供で
内に閉じこもりがちで本が一番の友達という感じだった。
近所の子やクラスメイトと外で遊ぶには遊ぶけど、一人でいる方が断然好き。
そんな僕は周りがどれだけ津軽弁を話していても、かたくなに津軽弁を話そうとしなかった。
それが小学4年生ぐらいまで続いたか。
「誰も触れない僕だけの国」が壊されてしまいそうで。
「向こう側」に渡ることができなかった。
そこに本=共通語への逃避というのが重なったのだろう。
共通語は正しい、方言は汚いという思い込みもあった。
 
小学5年生頃から「普通になりたい」という要求が勝るようになったのか、
津軽弁を話すようになった。
というか自分の中でのこだわりがなくなった。
その時僕は大人になるための段階のひとつを越えたのだと思う。
自分対世界の図式でしか捉えられなかったのが、世界の中での自分対他者という転換が図られた
とでも言うか。
 
その小学4年生のまま今の年齢になっていたら僕は
青森の片田舎で部屋から出ない引きこもり生活を送り、発達障害と呼ばれていただろう。
紙一重だったんじゃないか。そのことを考えるとゾッとする。
先天的な要素や後天的な状況にも寄るだろうが、
誰だってその可能性はあったんじゃないかと思う。