男はあるとき、自分の身の回りに目に見えない、透明な壁ができていることを知る。
ガラスでできているのか、なんなのかよくわからない。
とにかく硬くて、厚くて、遮られてその向こう側に行くことはできない。
だけど他の人々に壁は存在しないのだろう。何もないかのように通り抜けてくる。
そんな壁がところどころ折れ曲がったり、丸みを帯びたりしながらどこまでも広がっている。
壁のことに気づいて、それがどこまで続いているのかその果てを知りたくなったが、
辿り着いたことは一度もなかった。
来る日も来る日も手を当てて壁に沿って歩き続けて、遂に諦めて住んでいる家に戻った。
不思議なことに壁は毎日その姿を変えた。
日によっては家の周りに張り巡らされ、一歩も出られなかった。
ある日はどこまで行っても壁に出会わず、
消えたのかと喜んだのもつかの間、その日の壁にぶつかってしまった。
男が壁に突き当たったとき、パントマイムの芸を見せているような不自然なことになる。
あまりそんな姿を見せられないから、壁に気づいたときはいつもそっと離れる。
もう何日も過ぎて壁のあることが普通になってしまった。
壁を、受け入れた。
そんなある日、同じように壁を前にしてもがいている女を見かけた。
ひと気のない場所で、焦って、両手で叩いたり体全体をぶつけたりしていた。
その女にとって初めての壁なのだろう。だから男には話すことがたくさんあった。
だけど、男の抱える壁と女の抱える壁は別のもので、男は女に近づくことはできなかった。
壁を叩き続けていた女は、同じように壁を叩くふりをする男の姿にようやく気づいた。
女は男に向かって大声を出して呼び掛けているようだが、壁にさえぎられて何も聞こえなかった。
男はそれがわかっていたから、声に出したりはしなかった。
女はずっと叫び続け、壁を叩き続けた。
疲れ切った女は壁に背を押し付けてうずくまった。
男に背を向けて、肩の間に頭を埋めて、おそらく泣いているようだ。
男は女のそんな姿を眺めていた。
女はいつのまにか眠ってしまった。
男もまた壁に背を向けてうずくまって眠った。
朝になった。起き上がり振り向くと女はいなかった。
辺りを歩き回ったが、新しい壁に気づいただけだった。
壁は昨日よりも狭まっているような気がした。