歯医者その6

ロッコから帰ってきたばかりの頃、歯医者に行った。
受付で僕の名前が告げられると
いつもの歯科衛生士の女の人がドアを開けて
待合室のソファに座っている僕の前に来て、すまなそうに言う。
「あのう、携帯に留守電入ってなかったですか?」
そう言えば珍しく留守電が入っていた。
だけど夕方会社で聞いたとき、「もしもしこんにちは。○○と申します」とあって
そこから先は電波の調子がよくなかったのか途切れていて、なんかの間違いだと思った。
苗字と声に結びつく組み合わせはなく、誰かが掛け間違えたのだろうと。
「先生今日突然体調を崩してしまったんです。
それでオカムラさんの予約をキャンセルさせて頂こうとお電話したのですが・・・」
携帯に残された伝言を聞くことのできなかった僕は
そんなことになってるとは露知らずいつも通り歯医者へ向かったわけだ。
「申し訳ありません」と消え入るような声で何回か言われる。
となると後は次の予約を取って帰るだけ。


・・・のはずなのであるが、せっかく来てもらったのに、ってことなのかそのまま世間話へ。
オカムラさん前いらしたとき、旅行に出かけるって言ってたじゃないですか。
どこに行かれたんですか?」
ロッコとドバイ、と僕は答える。
「えー!?」と驚かれる。「すごいですね、それ!」
や、そんなすごいことでもないですよ。僕はそんなことを言う。
「あのあと私考えたんですよ。オカムラさんどこに行ったのかなって。
アメリカか国内かなって私思ったんですけど。
ごめんなさい。私モロッコもドバイ?もよくわからないんです。
・・・旅行お好きなんですか?」
「1年に1度は海外に行きますね」
「他にはどの国に?」
2年前が上海でその前がノルウェーで、と僕は簡単に説明を始める。
上海は大学の先輩が住んでいたから。
ノルウェーに行ったのはオーロラが見たかったから。
そこまで話すと彼女はすかさず質問を。誰もがそうするように。目を真ん丸にして。
「オーロラ見れたんですか!?」
いつの間にか彼女は僕の目の前でしゃがみこんでいる。
僕はオーロラを見たいがために初めての海外一人旅で飛行機を何度も乗り継いで
ノルウェーの北のはずれの小さな空港まで行ってバスに乗ったときのことを話す。
そのバスの中でかすかに見えたのに、その後過ごした何日かでは見ることができなかった。
残念に思う、いつかまたオーロラを見に行きたいと思う・・・。
その後初めて行った外国はどこだったんですかって話になって
「ロシア」と答えるとまた目を丸くされる。
「へー。珍しいですねえ!」


「何でロシアなんですか?」
「大学でロシア語をやっていて、語学研修のツアーに抽選で当たっちゃって」
「ロシア語話せるんですか?」
「や、抽選で当たって行くぐらいだから一切話せなかった」
「じゃあどうやって過ごしてたんですか?」
「片言の英語で」
「英語話せるんですか?」
「中学校程度なら」
「すごーい。私中学校レベルのでも、全然だめ。最初の最初からもうやり直さないと」
「ね、オカムラさん、ロシア語でなんか話せます?」
「え、だから、抽選で当たったぐらいだから」
「でも「こんにちは」ぐらい言えるでしょう?」
「あー。ズドラーストヴィーチェ、かな」
「ズドラ・・・?難しいですね」
「ロシア語って単語がやたら長いんですよ」


かなり長いこと待合室で、他の歯科衛生士たちのいる受付の前で
しゃがんで僕と話し込んでいることに気付いた彼女は
はっと気付いて立ち上がると、引き止めてしまってごめんなさいと言う。
「じゃ、次の予約は来週の××日に。今日は申し訳ありませんでした」


(明日に続く)