もし仮にWeb3.0というものがあるのなら

「CONTENT'S FUTURE ポストYouTube時代のクリエイティビティ」
という本が最近出て、たまたま本屋で目に留まって読んでみた。


CONTENT'S FUTURE ポストYouTube時代のクリエイティビティ (NT2X)

CONTENT'S FUTURE ポストYouTube時代のクリエイティビティ (NT2X)



通信と放送の間で「コンテンツ」とはどういう可能性を持っているのか?
CGM (Consumer Generated Media) はどこへと向かうのか?
ざっくり言うとそんなことをテーマに各界代表者9人へとインタビューしたもの。
日本テレビのT部長こと土屋敏男氏に始まり、編集工学者の松岡正剛氏まで。
初めて知る人ばかりだったけど、
その発言を読むとどの人に対しても素直にミもフタもなく「すげー」と唸ってしまった。
その分野での第一線で仕事してる人ってのは
物事をしっかりと考えて、はっきりとしたビジョンを持っている。
目の前の状況を真摯に捉え、
そこで自分に何ができるか果てしなく模索と試行錯誤を続けている。
自らのそれまでの結果に決して安住しようとしない。


いいときにいい本を読んだ。
あれこれ考えさせられた。以下、そのいくつかをツラツラと。

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もし仮に「Web3.0」というものがあるのならば、キーワードは「edit」ではないか。
「自己edit」や「相互edit」と、その連鎖反応。
松岡正剛氏の発言からそう思ったんだけど)


それがこの世界というものを織り上げていく。
目に見えない・意識されない行為として、絶えず様々なものが影響しあう。
今までよりももっとマクロな単位で、もっとミクロな単位で。
自然界の森羅万象に近付いていく。
情報というものも単線的ではなくなり、
「うねり」と「揺らぎ」を常に内包・外包したものとなる。


ここで言う「edit」とは例えば Wikipedia にて
Aさんが○○と書いたものをBさんが××と「訂正」するという
そういう表面的なレベルのものではない。
もっと能動的に世界を変えていく、
情報というフィルターというかスクリーンを通して
その人を取り巻く世界が変わっていく行為となる。


おさらいしよう。
Web1.0 でなしえたこととして、通信インフラやストレージ、
データにインデックスをつけて取り出す技術もろもろの発達により
ユーザーは大量データを瞬時に「検索」できるようになった。
ここではまだ、一方に発信する側がいて片方は受信するだけである。
しかし受信する側は何を受け入れるか、何を好むか、自ら「選択」できるようになった。
例えそれが膨大な量の情報の海の中で何かにしがみついて、溺れかけるだけだったとしても。


Web2.0はユーザーは自ら発信もするようになった。
発信と受信は力関係において、ユーザーの行為の重要度において、等価に近付く。
どのような情報であれどこかしらに居場所が見出され、
時としてそれは商品として売ること、魅力的なコンテンツとして流通させることも可能となった。
そのときその場における先鋭的な価値観や意見の総意というものを形成するに当たって、
一方的に上から与えられるもの、一部の権威者によって指し示されるものを脇に押しやりつつ
下から積み上げていくことがはるかに容易となった。
例えそれが種々雑多すぎて他の人にとってはどうでもいいガラクタや屁理屈ばかりだったとしても。


ここでちょっと話が飛ぶ。
学生時代に文学の研究をしていた頃、こんなことを考えていた。
前にも1度書いたかもしれない。
小説の発展の歴史。


【第1段階】
便宜的に19世紀までとする。
そこでは「作者=神」という図式が成り立ち、
その作品の中で描かれる世界観は完全に、一人作者によって生み出されたもの。
つまり、上(神の視点)から与えられたもの。
なので登場人物が何を考えてどんな行動をするかは作者が操り人形的に操作する。
主観的な一人称ではなく客観的な三人称の小説であっても
「○○は思った」みたいに他人の頭の中が透けて見えて提示されるのが
ごくごく普通の出来事として受け入れられている。
(21世紀の今に至るまでも、この形式ははるかに有力である)


【第2段階】
同じく、20世紀前半とする。かなり大雑把に「モダニズム」と呼ぶ。
大上段に構えた「作者=神」という姿勢に対し、人によっては違和感を覚えるようになる。
自分という作者が言葉によって描けるものは、
自分が日々暮らしている世界を凌駕するものとなりえるわけがない。
「世界」と対峙するその様そのものが作品の世界観となる。
作者の世界観と作品の枠組みとがイコール、対等となる。
もちろんそこでは他人の頭の中など覗けるわけがない。
「他者」という概念が意識され始める。
人(作者)は他者というものを、永遠に理解不能な存在として扱うようになる。


【第3段階】
20世紀後半。ポストモダニズム
作者よりも作品の枠組みの方が大きくなる。
作品というよりは言葉によって描かれるものがこの世界を覆っている様子というべきか。
1つ1つの小説がその中に組み込まれ、この社会や世界を語るためのより大きな言説を形作っていく。
間テクスト性」といったワードが語られるようになる。
1つ1つの小説は独立したものではなく、様々なレベルでの相互作用の果てに生まれているわけだ。
そしてまたそれらの小説が他の小説に対して影響を与える。
作者が日々暮らしていく中で見聞きする言葉。
あるいは非言語的様相を呈するが、何かを指し示す具象。その優劣。
社会的な方向性の数々。
この世界は言葉によって記述されることによって初めて「認識」される。
我々はそのためにも絶えず言葉というものを発し続けなくてはならない。
小説はその二次的な役割に過ぎなくなる。
より大きな目的のために消費されるものなのである。
無人島でたった一人生まれ育った人間が自分独自の言葉を発明し、物語を紡ぎだすのでもない限り。
(・・・こういう考え方は結局のところ斬新過ぎて
 全ての作家が受け入れているわけではなく、むしろ少数)


こんなふうに進んでいった。
今のところ第4段階というものはない。僕の知っている限り。
今この星のどこかで生み出されつつあるのかもしれないし、
そんなもの生み出しようがないのかもしれない。
たぶん、揺り戻しで第1段階に戻るのではないかと思われる。
しかしそれは単なる退行では決してなく、あくまで螺旋階段を上っていって、
縦軸横軸的には同じ位置なんだけど高さは変わってるというようなものとなるはず。


これってひどく単純化すると集約と拡散の過程と言い換えていいかも。


僕の持論としては、文化的な事象全般の恐らく大多数がこういう発展の仕方を遂げる。
で、Webもそういう流れに乗っかっていくのじゃないかと。
Web 1.0 / 2.0 / 3.0 と区切っていくのなら、
上の第一段階、第二段階、第三段階にそれぞれ当てはまる。


古びた現代思想の言葉で言うならば
絶対的な価値観や権力により語られる「大いなる物語」が内側から崩壊し、
例えば「構造」といった形でひたすら相対化されていく。
そんで今「Web2.0」は絶対と相対の間でパワーバランスがイコールの状態。
ここから先は斜面を転がるように相対化へと向かう。


最初に戻って、「edit」とはほっとくとすぐにも硬直化していく
テキストないしは情報への絶え間ざる能動的な・・・


・・・などなど書いてはみたものの。
あんまたいしたことは言ってないような気がしてきた。
昨日の夜考えていたときには「これだ!」って気がしたのに。


具体的にこういう技術、こういうサービス、こういうコンテンツ。
って言えたらいいのにね。


おしまい。