展覧会の絵

先々週法事で熊本に行ったときに上通の古書店「汽水社」で見つけた
「ONTOMO MOOK」シリーズの『ギタリスト400 世界の名手400人&CDガイド600枚』
これがなかなか面白い構成で、
ロックもブルースもジャズもクラシックも同一線上で語る。
冒頭の「不滅の巨匠10人」に選ばれたのが
パコ・デ・ルシアアンドレス・セゴビア、ジュリアン・ブルーム。
1995年の発刊だけど、今選んでもだいたいはこの10人となるだろうか。
さらにスーパー・ギタリストということで84人を選んだ中で
唯一日本人で選ばれたのが山下和仁という方。
僕は全く知らなかった。クラシックギター界では相当有名なようだ。
 
取り上げられたアルバムは
自ら編曲してギター一本で演奏したというもの。
10代のうちに世界的なコンクールの数々で優勝し、
展覧会の絵」は1981年、20歳の時の録音という早熟な天才。
(「火の鳥」は1985年)
Amazonのレビューで当時のコンサートを見た方のコメントによれば
後にも先にもない超絶技巧っぷりだったという。
さっそく僕も取り寄せて聞いた。
ピアノ用に編曲されたのをギターに置き換えるのではなく、
オーケストラ用のアレンジと向かい合い、ギター一本でそのエッセンスを抽出する。
これは確かに「古城」であり、「バーバ・ヤーガの小屋」であり、「キエフの大門」だ。
その大胆な発想、試みに脱帽する。
 
クラシックの曲で一番好きなのが「展覧会の絵
小さい頃に初めて名前を覚えた曲。
モーツァルトベートーヴェンをテレビやラジオでやってるのをたまに聞いてもピンとこなかった。
壮麗な長編小説のようで、いつ終わるんだろうと。
西洋の歴史そのものの重みを知らず知らずのうちに感じて怖気づいていたのかもしれない。
印象的なプロムナードの旋律が繰り返される「展覧会の絵」は
短編小説の連作集のようでとっつきやすかった。
しかもどことなくエキゾチックな雰囲気もあった。
今思うとアンリ・ルソーが想像の中だけで描いた南国の楽園のような。
「バーバ・ヤーガの小屋」といったように
着想元がロシアの民話であるところにエキゾチックなものを感じたのか。
 
この山下和仁のアルバムで iPhone に入れた「展覧会の絵」は4枚目。
カラヤンが1965年指揮したベルリンフィル。王道。
リヒテル、1958年「ソフィア・リサイタル」の冷徹なピアノソロ。
そしてもちろん、ロックバンドである Emerson, Lake & Palmer による、
ブルース・ロックとクラシックを融合させたカバー。
どれも面白い。
あのプロムナードの不思議な旋律には
ミュージシャンを惹きつけてやまないものがあるのだろう。

青森市の映画館のこと

今日からねぶた祭か。
さらに引き続き、『龍の伝言 ねぶた師列伝』ですが。
青森もまたかつては映画館が数多く存在していたという。
「ロマンス座」「オデオン座」「スバル座」といった名前が残っている。
 
名人北川金三郎、北川啓三親子のように
左官屋の棟梁という職を持ちながらねぶた師として活動したように
海外での出張製作で有名な石谷進は若い頃映画館で看板描きとして働いていた。
宣伝がてら仲間たちと小さなねぶたを作って
町内を練り歩いたのが評判になったと。
 
僕の小さい頃にはだいぶ少なくなったがそれでもまだ何軒か残っていた。
新町の通りにあった「スカラ座」は紳士服の小さなビルの上の階にあった。
文芸寄りだったと思う。高校生の頃『七人の侍』の再上映はここで見た。
 
新町と古川の国道を結ぶかつての中三の通りにあった「みゆき座」と「ミラノ座」
これは「青森松竹」と後に名前が変わったように思うが、元からこの別名だったのか。
いや、別々の映画館だったか。
B級映画が多いという印象。中学生、高校生の時はここで一番映画を見た。
海洋ものの『リバイアサン』『デプス』『アビス』が3本ともここだったような。
爆風スランプが主演の『バトルヒーター』というコタツ映画もここか。
メジャーリーグ』の試写会もここだった。
(同じ建物に、味噌カレー牛乳ラーメンで知られる「味の札幌 大西」の移転前の店舗があった)
 
新町の交差点のところにもう一軒あった。「東映シネマ」という名前だったかな。
僕が中学生になるかならない頃にできたんだったか。
レインマン』とか『インディ・ジョーンズ』シリーズの3本目をここで見た。
話題の洋画はここ、というか。
 
今、単館上映系の作品を公開している古川国道沿いの「シネマディクト」は
僕が小学生、中学生の頃は「奈良屋劇場」という成人映画専門の映画館だった。
バス通りなのでよく目立っていた。
寂れていて、入る人がいるんだろうかと子供ながらに思っていた。
ダンサー・イン・ザ・ダーク』は「シネマディクト」で見たはず。
 
この中では「スカラ座」が一番気になる。
他に何を見たか…
パンフレットの箱を漁れば、少しは思い出せるか。
スカラ座「みゆき座」「ミラノ座」 東映シネマ」
今となってはどの映画館も廃業している。
こういう情報、意外と忘れられて残っていない。

第44回芸能山城組ケチャまつり

昨晩は妻と、妻の後輩ちゃんと3人で芸能山城組による「ケチャまつり」へ。
新宿三井ビルの「55HIROBA」にて44年連続でこの時期開催しているという。
芸能山城組というと映画『AKIRA』の音楽を担当している。
AKIRA』が本来2019年を舞台としていることもあって名画座で再上映されたり、
今年4Kリマスター化されたりで再び脚光を浴びている。
正直な話、僕はしばらく芸能山城組の存在を忘れていたんだけど、
44年祭りを続けるというのはひとつのコミュニティとして全くぶれてないわけだし、
この世界の無数の民族舞踏、音楽のDNAを探ってパフォーマンスを行うという姿勢は
一周回ってようやく時代が追い付いてきたんじゃないかという気もする。
 
仕事を終えて都庁前へ。18時半には着いた。
昼から様々な演目があって、
竹のガムランであるジェゴグの演奏やブルガリアの女声合唱などが披露されたようだ。
僕が広場の階段に座ったときにはバナナの叩き売りが実演されていた。
 
18:45より、ガムランの演奏。
キングレコードが昔だした「WORLD ROOTS MUSIC LIBRARY」のシリーズの
バリとジャワのガムランを後追いで集めて、ジェゴグも含めて
10枚ぐらいは iPhone に常備してるかな。
そんな僕も生で聞くのは初めて。
床に並んだ金属製のゴングを細かなビートで叩き続ける。
大勢で行うのでほんのわずかなズレが揺らぎを生む。
鋭くも繊細な響きが幽玄な音のうねりを形作る。
世界で最も美しい音楽はガムランだと思う。何時間でも聴き続けられる。
手元を見るととても素早く右手を動かしていた。音階を奏でる方。
これまで僕は鉄琴をイメージしてたんだけど、
むしろスチールギターの打楽器版のような感じがした。
途中から踊りも加わる。
そのうちに日が暮れて夜になった。
 
妻たちが合流。フレッシュネスバーガーでポテトやコーラを買ってきてもらう。
20時過ぎにケチャ。
広場の真ん中に燭台を立て、上半身裸の男たちが集まる。
年老いた男が現れ、並んで座った男たちにお清めの塩と思われるものを振り撒く。
火のように真っ赤なライトに照らされて座ったまま身体を揺らし、
時には風になびく草原のように腕を伸ばし、立ち上がり一点へと向かう。
なんというか、原初からの生物群の生命の活動のような。
怒声のコーラスが行き交い、そこに王子、魔王、猿たちが現れてストーリーを語る踊りを。
新宿のビル街の隙間に異世界が現れたかのような。
この日もまた日中暑かったが、日が暮れて少し涼しくなる。そこに風が通り抜けてゆく。
完売になって入手できなかったんだけど、主催者側ではビンタンビールも売ってたみたいですね。
浴衣やアジアンな軽装で、瓶を片手に歩きながら飲んでいる人たちをよく見かけた。
 
公演は寄付で賄っているという。いいもの見せてもらったと僕も箱に入れた。
芸能山城組では毎日ここで(この広場で?)ケチャの練習をしているという。
いろんな人が加わって活動しているようだ。
ケチャを踊っていた中には小学生らしき男の子もいたし、外国人もいた。
できるんなら僕もガムランやってみたいな、と思った。

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追記:
The Pop Group『Fow How Much Longer Do We Tolerate Mass Murder?』
1曲目「Forces of Oppression」冒頭でコラージュされているのがケチャ。
 
『Bali Music from the Morning of The World』の7曲目「Ketjak Dance(excerpt)」から(のはず)。
世界各地の民族音楽を録音したイギリス人 David Lewiston によるもの。1966年。
海外だと Nonesuch から出てるのかな。国内盤も探せばあります。
僕が持っているのは『≪バリ≫バリのガムラン1 世界の夜明けの音楽』


油川のこと

『龍の伝言 ねぶた師列伝』を引き続き読んでいる。
津軽線で一駅目、油川のことがよく出てくる。
小が2年生から高校卒業まで住んでいた。
 
昭和21年の夏は各町内で青年団が中心となり、9台のねぶたを出したという。
(当時は今のように青森駅前の新町、国道に集結するのではなく
 各町内で小さなサイズをつくって担いでいた。その名残が子供ねぶたとなる)
終戦直前、青森市も大きな空襲を受けた。
油川がいち早く復興を遂げたのは港町だったからで、この頃は鰯が豊漁だったようだ。
福助屋、伊藤商店も商売を再開したという記述もあった。
(伊藤商店は今もあるのだろうか。福助屋は90年代後半頃か、閉店した)
 
僕も全然知らなかったんだけど、油川には飛行場があったのだと。
小学校や中学校で聞いた覚えはない。
いや、あったのかもしれないけど忘れてしまっているか。
イタリア人のファブリーさんが
大正時代に鰯の缶詰工場をつくった話は何度か聞いたことあったが。
 
ネットで検索してみると、ありがたいことに詳しく調べた方のページがあった。
「旧青森飛行場の歴史と現存する遺構」
「青森飛行場が存在したのは、青森市大字羽白字富田・字池上・字沢田(旧油川町)、
 大字西田沢(旧奥内村)の一帯である」
とあって、まさに僕が住んでいたところだった。
今は田んぼに囲まれた住宅地となっているが、その住宅地の大部分は飛行場だったのか。
その跡地に住んでいたのか。
 
歴史をかいつまむと、
・昭和8年竣工、完成後陸軍の演習で利用される。
昭和12年、民間による定期航路が開設される。東京、札幌、仙台と青森を結ぶ。
昭和15年定期航路廃止後、陸軍に接収される。
・昭和20年7月、飛行場も空襲を受ける。
・昭和20年8月終戦、9月米軍により接収される。
・昭和22年、飛行場跡地が引揚者の入植地となる。
 
『龍の伝言 ねぶた師列伝』に戻ると、
松前街道、つまり海沿いの国道には「こみせ」と呼ばれる木造のアーケードが立ち並び、
映画館もあったという。かつては活気のある町だった。
今となっては考えられない。すっかり寂れてしまって見る影もない。
内陸寄りにバイパスができて松前街道をゆく車も少なくなったか。
お年寄り向けの病院ばかりが増えた。
かろうじて田酒の西田酒造が残っている。
 
なんか今ふと、世界か日本で初めて七重跳びを達成した方が
油川出身で小学校か中学校で披露した、というのを思い出した。
僕自身が見たわけではなくて少し上の世代の出来事。
それも今となってはどうだったのか。
いろんなことがあやふやでもはや思い出せない。

新宿のディスコ

妻ととある件について先日話していたらテーマはディスコがいいんじゃないか、
ということになって野田努『ブラック・マシーン・ミュージック』を書棚から取り出した。
試しに読んでみたら面白いという。妻はアスキーアートでミラーボールをつくり始めた。
(ちなみに、その筋の方に補足するとテクノ専門誌『Ele-King』の編集長を務めた野田努氏は
 若い頃編集工学研究所で働いていたと聞く。
『情報の歴史』の奥付を確認するとスタッフとしてその名前がある)
 
ディスコ。思い出すのは上京してすぐの頃。1993年。
4人部屋の寮に入って毎晩酒を飲んでいた、というか飲まされていた。
いつもは集会所でビールのケースを逆さにしてお立ち台をつくってだったけど、
いつもそれじゃ飽きるということでいろんな趣向を凝らしたイベントがあった。
そのうちのひとつに新宿のディスコに行くというものがあった。
所属するブロックの先輩が何人か引率する。
西武線から中央線に乗って新宿へ。
歌舞伎町のどこかの雑居ビルの中だった。
 
フロアは薄暗くて、案外広い。
音楽がかかっていたけどどんなだったのか覚えていない。
その頃流行りだしていたいわゆるクラブミュージックだったのか、
それとも70年代のディスコクラシックだったのか。
脇の方に立食パーティーのように食べ物が並んでいて、
飲み物はカウンターにもらいに行くんだったか。
 
ほとんど客はいなくて、踊っていたのは数人ぐらいか。
若者が一人無言で、ブームも終わりかけていたパラパラの練習をしていた。
素人目にも下手だったけど、かといって僕に真似できるわけでもない。
こういうひっそり練習する場所って都会の片隅に必要だよな、と今でも思う。
 
一ヶ月5,000円の寮に住んでるぐらいだから僕らのほとんどが地方から上京していた。
高校時代からディスコやクラブで遊んでました、という人はほぼ皆無。
踊り方を知らない。皆、モジモジしていた。
見よう見まねでやってみて楽しく過ごせるという人がそれでも半分ぐらいはいたか。
 
1時間か2時間か過ごしたあと、このまま帰るのも何だということか、
皆で村さ来とかその手の安い居酒屋チェーンへ。
そこで散々飲まされて、歌舞伎町の広場に出る。
寮委員長が出てきて音頭をとって肩を組み、イッキのときの歌を大声で。
真ん中にポールがあって何人かがてっぺんまでよじ登ってみようとして、それをはやし立てた。
飲みすぎてその場で吐いていた人もいるかもしれない。
その歌の盛り上がりの部分が
「いっきょういっきょういざふるえ、いっきょういっきょういざふるえ」
となっていて、通りがかった大人がわざと聞こえるように
立教大学の学生か、ひでーなー」と吐き捨てて去っていった。
たぶんこのディスコ→居酒屋→広場で騒ぐというのはこの頃毎年、行事としてやってたと思う。
立教大学のみなさん、ほんとすみません)
 
ディスコに入ったのは後にも先にもこの時だけ。
その後大人になって音楽の幅がロックから広がるとともに
ディスコミュージックも聞くようになる。
だけどそこでいうディスコとは僕にとってバーチャルな空間のまま。

07/23-07/28

07/23(火)
 
朝から小雨。まだ梅雨が続く。
昼、弁当。鯖。ベーコンとネギのスクランブルエッグ。
7時出社でメリメリ仕事。
要件定義で決まった内容からメールテンプレートを起こす。
夜までかかるかと思いきや、定時までに終わった。
定時でオフィスを出る。
 
帰ってきて LIVIN で買い物。
掃除機、室内に干した洗濯ものを畳む。
みみたに薬を飲ませようとするが階段を下りて1階まで逃げ出す。
元気になったと捉えることにする。
 
明日の弁当の準備。パックで買ったトンテキを焼く。卵焼き。
夜は週末の暴飲暴食を意識して
昨晩の叩きキュウリの残り、スイカの残り、海藻とレタスとトマトのサラダ、冷ややっこ。
休肝日とする。
NHKをたまたまつけたら、1964年東京オリンピックの選手村の料理人のドラマ。
鑑定団。
22時を過ぎて布団に入る。
妻の帰りが遅くなり23時半。結局寝たのは午前0時ごろか。
夜、大雨。
 
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07/24(水)
 
昨日今日と熊本の古着屋で買ったポロシャツ。
近畿以西は梅雨明け宣言。
午前中ゲリラ豪雨だったと聞いた。
昼、弁当。昼寝。
打ち合わせしたり、設計書を直したり。
 
定時少し過ぎてオフィスを出る。
OJT担当の先輩と後輩と大手町で飲む。
大手町まで歩いていく。
入社して20年か。いまだ飲みにいける先輩・後輩がいるのはいいものだ。
先輩と丸ノ内線に乗って帰ってくる。
妻も仕事を終えて会社を出たとのことで中野坂上駅で待ち合わせて帰る。
弁当の用意。豚ロース味噌漬けを焼く。他、作り置きのもので。
街録を見て寝る。
 
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07/25(木)
 
朝晴れているのは久しぶりか。
今日にも梅雨明けか。
吉本の混乱続く。
京アニの報道も続く。
しかし参院選は既になかったかのような。
 
昼、弁当。昼寝。
いくつか打ち合わせ。
悩ましい課題が出始める。
 
18時過ぎにオフィスを出る。
今日は妻の方が早く帰っている。
LIVIN で買い物。
明日は弁当なし。
夜は妻が筑前煮をつくる。
竹輪を半分に切ってグリルで焼いて、溝を明太マヨネーズを埋めて食べる。
缶ビールを飲んで、日本酒へ。じょっぱりのワイン風のを。
鑑定団の再放送など。
23時過ぎに布団に入った。
 
年に一度か二度あるんだけど、開腹部の傷跡がすれて湿疹。
赤くなって痒い。
 
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07/26(金)
 
7時起き。
台風が発生するらしく。明日のBBQはキャンセルにする。
幹事の後輩とやり取り。残念。
午前休で床屋へ。
先週木曜が休み、金曜が混雑で3回目のトライでようやく。
終わって新宿。
紀伊国屋のDiskUnionでCDを売る。20枚売って5000円になった。
待ってる間、地下のモンスナックでカツカレーを。
タワレコで取り置きのCDを買って出社。
午後は進捗の打ち合わせ2本。
その準備とあアフターフォローで1日終わり。
定時でオフィスを出る。
 
チコちゃん。
新日本風土記は瀬戸大橋。猫歩きはアイルランド
おんな酒場放浪記。タモリ倶楽部でウトウト。
全国の甲子園予選の番組となって、
敗れた選手たちの涙ながらの最後の言葉をつなぐコーナーで大湊高校。
金曜日のどっちを見て寝る。
時折大雨。それがパタッとやむ。
 
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07/27(土)
 
夜中、大雨で目が覚める。
BBQをキャンセルしてよかったか。
と思って寝て、目が覚めたら快晴。BBQ日和。しまった。
しかし台風は東海地方に上陸したという。
大草原の小さな家を見て、洗濯物を外に干して、
みみたを動物病院につれていく。
待っている間にみるみる雲行きが怪しくなって雨。風も出る。
BBQキャンセルしてよかった、しかし、外に洗濯物…
みみたは血液検査して肝臓周りの値が
3週間前よりは少しよくなったが、正常値ではないのは変わらず。
引き続き3週間様子を見ることになる。
 
帰ってきて、外に食べに行こうと味の民芸へ。
手羽先に串カツで瓶ビール。カレーうどんの定食にする。
おろしトンカツとご飯がついてくる。
かなり腹がいっぱいになった。
土用の丑の日で鰻を頼んでいる人もチラホラ。
食べ終えて腹ごなしの散歩がてらライフへ。
真夏の日差しでくらくらする。
帰ってきてエアコンの効いたソファーに寝転がったら
そのまま3時間ほど昼寝。起き上がれず。
 
イタリアを見て、ブラタモリは阿寒湖・摩周湖
21時よりすべらない話。ジュニアと大悟がよかったな。
お笑い向上委員会。引き続き相席スタート
かつみ・さゆりも出て、ふたりは結婚した方がいいと。
来週はホトさんスペシャルとのこと。
ドリカムの2009年のコンサートのDVDを見ているうちに寝落ち。
 
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07/28(日)
 
明け方また雨。
やはり朝、快晴。梅雨明けか。
常備菜の用意。ブロッコリーを茹でる。こんにゃく炒め。
切り干し大根の煮物。この前熊本で買った九州の甘い醤油で。
Lazy Sunday 聞けなかった先週はジョージさんが夏休みで、
今週は麻耶さんがお休み。
蕎麦を茹でて食べる。
妻がこの前買った浴衣で外出。
 
Lazy Sunday が終わって、夜までずっと音楽を聞きながら
CDの解説を読んだり、『Switch』のドリカム特集のニューオリンズを読んだり、
『龍の伝言 ねぶた師列伝』の続きなど。
笑点世界遺産を見る。
モヤモヤさまぁ~ず2はこの日無し。いだてんも結局見なかった。
弁当の用意。ご飯を炊き、鯖を焼き、ベーコンとほうれん草のスクランブルエッグ。
夜はレトルトのガパオライス。目玉焼きを乗せる。
焼酎の水割りをつくって氷をたくさん入れて飲む。
お風呂を沸かして入る。
右わき腹にできた湿疹、以前皮膚科でもらったステロイド系の薬を塗ってみる。
23時過ぎ、妻を駅まで迎えに行く。
『Song To Soul』の続きを見る。
The Tokens 「ライオンは寝ている」
 
みみたは日中、昔小さなころに家に人が来ると怖がって隠れた、
一階のPC部屋のカラーボックスの裏で過ごした。
声をかけてもニャアと鳴くのみ。腹をかばってうずくまったりはしない。
ただベターっと寝そべっている。吐いたり、苦しそうにはしていない。
だったらまあいいかとそのままにしておく。
日が暮れて2階に上がってくるが、和室の布団の間でやはり寝ている。
急に熱くなってみみたも体温調節できずにいるのか。

『龍の伝言 ねぶた師列伝』

先日新書を読んだのに続いて、ねぶた師について書かれた本を取り寄せて読んでみる。
澤田繁親という方の『龍の伝言 ねぶた師列伝』という本。
(ノースプラットフォーム、2006年)
 
開いてみたら冒頭、中上健次との対談。思わぬ拾いものだった。
1985年、著者が主催して梅原猛中上健次を招いた「縄文シンポジウム」のときになされたもの。
このとき梅原猛中上健次はハネトの衣装をまとってねぶた祭に参加したのだという。
中上健次ガルシア・マルケスのコロンビアは山の地方と海の地方に分かれ、
山の地方でつくられた民話や神話が海の地方に持たらされ、渦を巻き、蓄えられる。
それは青森のねぶたもそうなのだと。その血なのだと。
物語とはそのようなぶつかり合いから生まれる。
そこから新宮へ、ソウルへ、縦横無尽にリンクしていく。
 
もうひとつ、パフォーマンスアートで有名な浜田剛爾との対談も。
ねぶたとは縄文である、あの赤は縄文の赤であると喝破され、
なんで自分はそんな当たり前のことにこれまで気づいていなかったのだろうと悔しく思う。
三内丸山遺跡を挙げるまでもないこと。
 
印象的な話があった。
洋画家、斎藤真一はパリ留学から帰ってきたときに先輩藤田嗣治の教えもあり、東北を訪れた。
ねぶた祭に感銘を受け、瞽女のことを聞く。女性の、盲目の、三味線を弾き唄う門付芸人たち。
彼は瞽女の絵を描き、長年に渡って熱心に通いその話を聞いた。引用します。
「その瞽女さんたちと話をした時にね、五歳とか十歳とかで目が見えなくなった人が、
 あの夕日の赤い色とか、あの空の青い色とか、
 そういうふうに鮮やかな色のことを語るんだそうですよ。
 彼の絵は非常に明るい色というか、独自の赤ですよね。赤とか青とか原色で」(p.76)
 
ねぶたが描いてきたもの、語り継いできたもの、この現代社会に流れついたものは
生命の根源にあるもののぶつかり合いなのだなということを改めて思う。
そこで流されてきた血の記憶なのだと。
傷ついた身体の外側で、脈打つ身体の内側で流れた無数の血が混ざり合って大河となり流れる。
それが本来のねぶたなのであろう。